皇帝およびドイツ国王を選ぶ選挙権を持つ封建領主および聖職者を特に選帝侯といいます。
日本では天皇家に生まれた者の中から世襲制で天皇が選ばれるのに対し,中世ドイツ国王は世襲ではなく選挙で選ばれていました。
選帝侯構成員
各選帝侯には,宮内官が割り当てられていました。
13世紀の選帝侯
教会領主
- マインツ司教:ドイツ大書記官長
- ケルン司教:ガリア=ブルグンド大書記官長
- トリアー司教:イタリア大書記官長
世俗領主
- ボヘミア国王:献酌侍従長
- ライン宮中伯:大膳職長
- ザクセン公爵:式部長官
- ブランデンブルク辺境伯:侍従武官長
ライン宮中伯の選挙権は,1777年にバイエルンが相続することになります。
17世紀の選帝侯
- バイエルン公爵(1623年より):大膳職長
- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)公爵:旗手長
1803年のドイツ帝国代表者会議により追加された選帝侯
- ザルツブルク公爵
- ヴュルテンベルク公爵
- バーデン辺境伯
- ヘッセン・カッセル方伯
ただし1806年に神聖ローマ帝国が消滅したことにより,これらは無効となりました。
選帝侯の歴史
始まりから二重選挙まで
東フランク王国で,カロリング朝の最後の王が911年に亡くなった時に始まります。
帝国侯爵たちは,相続法による西フランク王国のカロリング朝の者を任命するのではなく,コンラート一世(Konrad I.)を王として任命しました。
国王の力が強ければ,生前に自分の息子を後継者として選挙で選ばせることはできます。
フランスではカペー朝が何代にも渡って男系が断絶することなく続いたため,世襲制へと移行することができました。しかしドイツでは国王の力が弱く,世襲制への移行に失敗しました。
選挙で必ずしも王の息子が選ばれるとは限らず,1138年にロタール(Lothar)が亡くなった時,選ばれたのは息子ではなく甥のフリードリッヒ一世赤髭王でした。
選挙のたびに自由選挙の伝統が強化され,伝統的な相続法は弱体化していきました。国王選挙には神の意志が働くと考えられており,原則として「全会一致」でなければ国王を選ぶことができませんでした。
国王選挙は,帝国内で力を持った者ではなく,国王に近い地位と権力を持った者たちによる予備選挙のようなものがありました。そのような者たちから選帝侯が誕生したと考えられています。
選挙は,予備選挙を行う者たちが同意していれば,合法とみなされました。
それゆえ,国王と対立する派閥だけが集まって選挙が行われ,対立国王が立てられる混乱の時代が生まれることにもなりました。
11世紀初頭は多くの封建領主が口頭で推薦する人物の名を挙げていましたが,全会一致を達成するためには少人数のほうが一致しやすいことは明らかです。
そのため12世紀には大きく数を減らし,ロタール三世の選出の際には40人に絞られました。
皇帝ハインリッヒ六世が1197年に死去すると,シュタウフェン家とヴェルフェン家による王位争奪戦が始まりました。シュタウフェン家はフィリップ・フォン・シュヴァーベン(Phillip vpn Schwaben)を,ケルン大司教はオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク(Otto von Braunschweig)を推していました。
ここに二重選挙による対立国王が誕生します。
このようなことが起こらないようにするために,平等な代表権をもつ選挙委員会を形成すべきだと,ヴェルフェン派から提案がなされました。
選帝侯の形成と大空位時代
1198年,ローマ教皇イノセント三世により,合法的選挙には三大司教とライン宮中伯の同意が不可欠とされました。
13世紀初頭には,ザクセン公爵とブランデンブルク辺境伯が追加されました。
そして選帝侯たちの派閥争いにより2人の人物が国王に選ばれますが,支配権を行使することができなかったため,ハプスブルク家ルドルフ(Rudolf von Habsburg)が選ばれるまで,大空位時代となりました。
大空位時代に,選帝侯の地位が大幅に強化されます。
1289年に,このような膠着状態を避けるため,ボヘミア王が選帝侯に加わります。
レンス選挙連盟(Kurverein zu Rhense )
1338年,後の帝国選挙評議会となる選挙連盟が開かれました。
ここで,国王に選ばれたものは教皇の承認を必要としないということが決定されました。
マクシミリアン二世から1792年まで,選挙と戴冠式はフランクフルトで行われるようになります。
1356年の金印勅書
ホーエンシュタウフェン朝のフリードリッヒ二世以降,選帝侯は支配王朝の一員の選挙から自由選挙に移行しました。
実質的に,すべての帝国侯爵が国王に就くチャンスがあるわけです。
国王になるために,選帝侯に特権を与えたり賄賂を贈ったりするなど,票を買う必要がありました。つまり,国王になるためには,選帝侯たちに膨大な金額を支払わなければならないということです。
これらの慣習は,ドイツの中央集権化が遅れ,分断化が進む要因となりました。
そのような消耗を避けるため,皇帝カール四世は選帝侯の権利と義務および国王選挙の手続きを金印勅書で法律に定めました。
投票の順番も決まっており,トリアーとケルンの大司教のあとに世俗領主が続きます。最後にマインツ大司教が決定票をを入れます。
また,票の分断を避けるため,選帝侯領は不可分な領土とされました。
選帝侯の終焉
ナポレオン戦争により,トリアー,ケルン,プファルツがフランスに併合された結果,これらの選挙権が廃止されました。
代わりに, レーゲンスブルク=アシャッフェンブルク公国,ヴュルテンベルク,バーデン辺境伯,ヘッセン=カッセル方伯が加わりました。
これにより,カトリックが優位であった選帝侯メンバーはプロテスタントと同数になりました。
しかし新しい選帝侯たちは帝国政治に影響を与えることなく,1806年にフランツ二世が退位し,ドイツ神聖ローマ帝国の終焉とともに,選帝侯の役割は終わりました。