ブロイベルク城(Burg Breuberg)

ブロイベルク城はダルムシュタット(Darmstadt)の南からハイデルベルク(Heidelberg)北部辺りにかけて広がるオーデンヴァルト(Odenwalt)にある山城で、保存状態の良い城で、文化財に指定されています。

城の建物の大部分が状態良く保存されており、その中でもゴシック様式とルネッサンス様式の建物は特に重要です。

この城にはユースホステルと博物館があります。

目次

ブロイベルク城の見どころ

ブロイベルク城が建つ山の周りにはミュムリング川(Mümling)が流れ、北側の山々とは狭い鞍部でつながっています。ここには、古代ローマ時代から使われていた中世の交易路である旧フランクフルト街道がありました。

なお、ブロイベルク城のすぐ近くには、かつては小さな城が多く見られ、下級貴族の城と考えられています。

城の建築物

主城

12世紀に建てられた城の最古の部分になります。

この時代の城としては脅威の広さ、1,900m²(平均は約1,000m²)もあります。

主城は五角形の見取り図で、堀や環状城壁、四角柱のベルクフリートがあります。

現在、主城はユースホステルとして使用されています。中世の騎士が活躍した時代の12世紀に建てられた城で泊まれるなんて、ロマンチックではないでしょうか。

その反面、一般の人は内部を見学できません。

ゲートハウス

主城の西にあるゲートハウスの二段構えの門は、1200年頃のロマネスク時代の傑作です。

ベルクフリート

ベルクフリートは、中庭に独立して建っており、高さ約25m、幅8.9mあり、壁の厚さは2.5mです。

表面が丸みを帯びたコブ状切石(Buckelquader)と表面が荒い切石でできているのがわかりますでしょうか。

このベルクフリートの切石の特徴は、ホーエンシュタウフェン家の勢力圏にある城に見られる特徴です。

井戸小屋

山城にとって最も重要なことは、水源の確保です。ある意味山城で最も重要な設備になります。

井戸は深さ約85mあり、木製の汲み上げきは1560年のものになります。

最初は貯水槽を利用していましたが、それでは城の使用人たちや馬を増やすには水が足りないため、15世紀以降に掘られたものです。

17世紀にそれでも水が不足するように成り、パイプライン(長さ2,800m)を使って泉から汲み上げていました。

城の給水に関するパネル展示があります。

フォアブルク

14世紀にはあったと考えられていますが、現在残っている建物は1528年から1620年に建てられたもので、ロマネスク様式とゴシック様式の建物があります。

北側にある魔女の塔(Hexenturm)は、16世紀には牢獄として使用されていました。

門の近くにあるヨハン・カシミール館(Johann-Casimir-Bau)は、16世紀初頭に建設され、1階はヴォールトのホールを持つ厩に、上階は騎士の間(Rittersaal)に改装されました。現在は博物館として使用されています。

城門

樽型ヴォールトで衛兵室があります。

1499年に建てられましたが、その後何度か再建されています。

当初は木製の跳ね橋が設置されていましたが、1812年に石橋に置き換えられています。

ブロイベルク博物館

一つはブロイベルク地方と城の歴史を紹介する博物館は1963年に設立され、ヨハン・カシミール館にあります。

古いものは先史時代のもので、ローマ時代から中世時代の出土品が展示されています。

もう一つは、この地域の手工業から工業への発展をテーマとした展示が行われており、様々な道具や品々が展示されています。

ブロイベルク城へのアクセス

ブロイベルク城の歴史年表

この城で起こった戦争と言うのはまったく知られておらず、三十年戦争でもまったく被害を受けませんでした。

管理されていなかった時期の一部崩壊と、第二次大戦の終わり頃にここで雇われた外国人労働者による損害のみで、ほとんど破壊されたことがない状態の良い城と言えます。

1150年(本によっては1189年)

ライツェ・フォン・リュッツェルバッハ(Latze von Lützelbach)がフルダ(Fulda)修道院領のオーデンヴァルトの北部を守備する役職に就いたのが、最も古い記録です。

1200年頃

ブロイベルク城がはこの頃に建設されたと考えられており、1222年にコンラート・ライツォ・フォン・ブルーベルク(Konrad Reizo von Bruberc)として文書に記載されています。

ベルクフリートと主城の後期ロマネスク様式の玄関が、この時代に建設されたものと考えられています。

1323年

ブロイベルク家は男系で断絶し、3人娘婿達によって分割相続され、半分はトリムベルク(Trimberg)家に、ヴェルトハイム伯爵家(Wertheim)とヴァインスベルク(Weinsberg)家が1/4ずつ相続します。

その後、周辺の領主たちと幾度となく所有の交換が行われ、所有は複雑になっていきます。

1337年

所有者たちで分割契約が結ばれ、城のどの部分を誰が所有し、管理しなければならないかが記録されています。

ただし、井戸などの重要な設備は共同管理していました。

1497年

城はヴェルトハイム家の領土政に重要であったため、分割されている状態を不安に感じて徐々に買い戻し、ミヒァエル2世・フォン・ウェルトハイム(Michael II von Wertheim)の時にすべての買い戻しが完了します。

ヴェルトハイム家の時代に、砲塔や砲台が建設され、火器の発達に対応しました。ヴェルトハイムの武器庫やゲートハウスの一部も、この時代に建てられたものです。

1556年

ヴェルトハイム家が断絶し、再び分割相続されます。

エアバッハ(Erbach)伯爵家とレーヴェンシュタイン(Lewenstein)伯爵家に分割相続されます。

1574年

レーヴェンシュタイン家の当主が亡くなると相続争いが起こり、1598年まで争い続きました。

三十年戦争

何度も所収者が変わりました。所有者たちが異なる宗派に属していたことに起因しています。

レーヴェンシュタイン家はカトリック、エアバッハ家はプロテスタントです。片方が出兵すると、残ったもう片方が城を掌握するということが繰り返されます。

1806年

エアバッハ家とレーヴェンシュタイン家が所有していましたが、ヘッセン・ダルムシュタット(Hessen-Darmstadt)に組み入れられます。しかし城はまだ役所として使用されていました。

19世紀末~第一次世界大戦

城内に玩具工場があり、木製のアフリカの動物を制作し、販売していました。

第一次世界大戦後

城は再びエアバッハ(後のエアバッハ・シェーンベルク、プロテスタント)家とレーヴェンシュタイン・ヴェルトハイム(後のレーヴェンシュタイン・ヴェルトハイム・ローゼンベルク、カトリック)家の所有となりました。

1919年

エアバッハ・シェーンベルク(Erbach-Schönberg)侯爵が主城をユースホステルにし,1942年にドイツ帝国ユースホステル協会に売却します。

第二次世界大戦

強制労働者が収容されます。

1949年~

城の建造物の維持は、ヘッセン州の国立宮殿・庭園庁( Verwaltung der Staatlichen Schlösser und Gärten Hessen)が行っています。

管理はヘッセン州が行っていますが、現在もエアバッハ・シェーンベルク家とレーヴェンシュタイン・ヴェルトハイム・ローゼンベルク家が半分ずつ所有しています。

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