もう一つの【フランケンシュタイン城】:プファルツの山城に眠る歴史と伝説

ラインラント・プファルツ州の小さな町「フランケンシュタイン」に佇むのが、フランケンシュタイン城(プファルツ)。

実は「フランケンシュタイン城」と呼ばれる城は、ドイツ国内だけでも複数存在します。

特に有名なのが、ヘッセン州のオーデンヴァルト地方にあるフランケンシュタイン城(Burg Frankenstein)。

そのため混同を避けるために、本記事ではプファルツにあるこの城を「フランケンシュタイン城(プファルツ)」と表記してご紹介します。

日本も同名の城がある場合、旧国名をつけて区別している時があるね。(例:備中高松城、三河山中城)

なお、小説『フランケンシュタイン』で有名な「怪物フランケンシュタイン」は、オーデンヴァルトの城と深く関係しているといわれていますが、著者のメアリー・シェリーはここのフランケンシュタイン城(プファルツ)にも訪れたと考えられています。

著:シェリー, 翻訳:小林 章夫
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城の立地山城(半島城)
城の種類ブルク
城主の階級と変遷リンブルク修道院→ライニンゲン伯爵→ナッサウ・ザールブリュッケン伯爵→プファルツ選帝侯→バイエルン王国→ラインラント・プファルツ州
最初の城築城1100年頃

当時重要な街道であったメッツ(Metz)からシュパイヤー(Spyer)を結ぶ街道を保護し、城からデュルクハイム(Dürkheim)やヴォルムス(Worms)へと結ぶ街道を監視していました。

本記事では、もう一つのフランケンシュタイン城であるフランケンシュタイン城(プファルツ)の見どころの歴史を紹介します。

目次

フランケンシュタイン城(プファルツ)の見どころ

フランケンシュタイン城(プファルツ)は、丘陵地が半島状に突き出た先に建つ中世の半島城。堀切(Halsgraben)によって尾根側からの侵攻を防いでいます。

城山の高さは423mで、城は標高300mの場所で比高は70m。

岩山の上に築かれた上の城(Oberburg)と南東にある2つの下の城(Unterburg)で構成されており、岩山上のわずかな空間と急斜面に、いろいろな建築家により巧みに建築されています。

上の城にベルクフリートがあり、下の城にパラスがあります。

主郭(Hauptburg)

Flocci Nivis, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons

パラスは13世紀に建設されたもので、地下室を含めて4階建て。後期シュタウフェン朝あるいは後期ゴシック時代のものです。

石の形状から、シュタウフェン朝期のものであることがわかります。

背丸角石(Buckelquader)

シュタウフェン朝時代、表面に出ている面がボコッとなっている方形の石が大流行しました。この時代特有なので、シュタウフェンの壁とも呼ばれます。

表面は、きれいに整えられていることもあれば、粗削りのままのこともあります。

環状城壁と同様、この時代のものはこのような石が用いられていることが多いので、すぐに時代が分かります。

このような角石は高度な石工技術が必要とされ、技術が大いに飛躍しました。

(写真:皇城ゲルンハウゼン)

中庭の下から丸い門を通って入ります。

パラスは広さ約89㎡。ホール館の地下は井戸部屋に通じていたと考えられています。

この煙突跡は非常に珍しいものであり、プファルツ州当時のものとしては最大級のもの。

この煙突の存在は、上層階が居住区として使用されていたことを意味しています。

  • 下部の腰掛けニッチ:14世紀初頭のモールディング
  • 上部のアーチ窓:14世紀後半の形式。

Emil, CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/, via Wikimedia Commons

ベルクフリート

Flocci Nivis, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons

四角形のベルクフリートは、基部が残っているのみ。

ベルクフリートは13世紀初頭から中頃にかけて建設され、攻撃側を強化していました。

現在ベルクフリートは展望台として使用されており、ここから眺める渓谷は美しく素晴らしいです。

展望台からの眺め
Flocci Nivis, CC BY 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0, via Wikimedia Commons

城主はここから、美しい領地を眺めていたのでしょうね。

城壁

20世紀の発掘調査により、城壁がどのように伸びていたのか明らかになりました。

  • 城壁が外郭と主郭を隔て、主郭の西から北に3m
  • ベルクフリートの南西に隣接する長さ16m、厚さ2~3mもの盾壁がさらに防御を強化

フランケンシュタイン城の歴史

Template:Stahlstich koloriert nach Richard Höfle, um 1850., Public domain, via Wikimedia Commons

フランケンシュタイン城の築城

ベルクフリートはリンブルク修道院(Abtei Limburg)の所有ですが、街道保護の任務をライニンゲン(Leiningen)伯爵に任せており、フランケンシュタイン卿はライニンゲン伯爵のブルクマンや衛兵として城を管理していました。

1100年頃

フランケンシュタインの名が文書に初めて登場します。

リンブルク修道院修道院によって1146年以前に築城されたと思われており、塔は1100年頃に建てられたという記録もあります。

修道院とライニンゲン伯爵の封建家臣であったフランケンシュタイン卿によって記載されました。

1251年

フランケンシュタイン卿がライニンゲン家から城の一部を譲り受けます

1301年

ベルクフリートの隣に城が建設されました。城は、ライニンゲン伯爵の所有です。

複雑な所有関係

1345年、フランケンシュタイン家が断絶したため、フランケンシュタイン領はライニンゲン伯爵家に移りました。

フランケンシュタイン城の所有権状況は築城当時からややこしくてね

  • 土地とベルクフリートはリンブルク修道院の所有
  • 城はライニンゲン伯爵の所有

封建関係は、

リンブルク修道院→ライニンゲン伯爵→フランケンシュタイン卿

になっていました。

フランケンシュタイン卿は、ライニゲン伯爵に使える役人と言ったところかしら?

1390年

リンブルク修道院は城の半分をアインゼルトゥム(Einselthum)卿に譲渡したため、城は共同相続城塞となりました。

共同相続

ゲルマンの伝統は分割相続です。しかし分割相続すると、所領は細分化されていってしまいます。これを防ぐために共同相続という手法を用い、共同管理、共同所有の形で本家および分家で相続することがありました。

所領だけでなく城も共同相続の対象となり、代々共同相続されます。

一族で共同管理するのが一般的だけれど、赤の他人と共同相続することもありました。

この新しい城主は、ベルクフリートに行ける階段を設けた新しい建物を建てました。

1414年(1416年説もあり)

ナッサウ・ザールブリュッケン(Nassau-Saarbrücken)伯爵とライニンゲン・ハルデンブルゲン(Leiningen-Hardenburg)伯爵に引き継がれ、城のどの部分を所有し、どこは共同所有にするのか、くじ引きで決められました。

く、くじって……。話し合いで決着がつかなかったからくじで決めたのかしら?

フランケンシュタイン卿は、これら修道院や伯爵家の駒としてしばしば文献に登場するに過ぎません。

一介の下級騎士の扱いはそんなもんだよね。

城の破壊

戦争は反乱が起こると、城はなにかと標的になるものです。

1470/71年

プファルツ選帝侯フリードリヒ1世(Kurfürst Friedrich I. von der Pfalz)とプファルツ・ツヴァイブリュッケン伯爵ルードヴィッヒ1世(Grafen Ludwig I. von Pfalz-Zweibrücken)間の紛争で、城が破壊されます。

このときはまだ一部とはいえ、居住可能だったよ。

1525年

農民戦争により、城がさらに破壊されます。

1555年

アインゼルトゥム家が断絶し、ヴァルブルン(Wallbrunn)卿の所有になりました

1560年

城は完全に居住不可とされますが、立地条件に優れていたため、軍事目的で使用され続けていました。

ヨーロッパ国際紛争の時代

17世紀になると、三十年戦争を始めとする国際紛争の時代に入り、フランケンシュタイン城も巻き込まれてしまいます。

三十年戦争(1618年~1648年)

三十年戦争初期の1620年、城はスペイン軍により征服されてしまいます。スペイン軍は小規模部隊を配置していた可能性があります。

この戦争により、城はさらに被害を受けます。

スペイン継承戦争(1701年~1714年)

フランス軍はフランケンシュタイン城を宿泊施設として使用。

1703年に城の礼拝堂でフランス兵のための礼拝が行われたという証拠が残っており、礼拝堂はまだ使用可能であったことを物語っています。

フランス革命(1789年~1795年)後

ウィーン会議により、フランケンシュタイン城の所有権は、バイエルン王国(Königreichs Bayern)に移りました。

修復と保全

バイエルン王国の所有になり、城は修復され、構造的にも安全になりました。

現在はラインラント・プファルツ州の所有となり、州の管理局が考古学的調査、修復、保全措置を実施しています。

この過程で、盾壁の基礎が検出されたよ。

フランケンシュタイン城の埋蔵金伝説

フランケンシュタイン城に住む騎士は盗賊騎士。

下を通る商人たちを襲って金品を奪い、莫大な富を築き上げました。

しかしある日、彼は勇敢な者たちによって尾行されて追われ、逃げ回っているうちに馬とともに崖下へ滑落して亡くなってしまいました。

その盗賊騎士は豊富な財宝を洞窟の中に運び込んで隠し持っていたため、簡単には見つかりません。

埋蔵金の話を聞きつけたある勇敢な者が財宝を見つけ出す冒険に出かけたところ、怪しい洞窟を見つけ、その洞窟をさらに進んでいくと、鍵のかかった明らかに怪しい門がありました。

鍵を外して門を開けると……

頭が燃え盛る2匹の犬が現れました。盗賊騎士の財宝を守っている犬たちです。

男は恐怖のあまり言葉を発することもなく逃げ出してしまいました。逃げ出した男の髪は、恐怖のあまり白くなってしまったと言われています。

フランケンシュタイン城へのアクセス

城の西側に大きな駐車場があり、この駐車場から城への小道が続いています。

東側にも小さな駐車場があり、地下を通って城へと続く道があります。

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