ドイツ騎士団(Deutscher Orden)

ドイツ騎士団(別名:チュートン騎士団)とは,ローマカトリック教会の騎士修道会のことで,十字軍時代の修道会の流れをくんでいます。テンプル騎士団,聖ヨハネ騎士団とともに,ヨーロッパ三大騎士団の一つです。

一時は騎士団国家まで設立した騎士団です。

現在本部はウィーンにあり,会員数は1100名,うち僧侶100名と尼僧200名が含まれており,慈善活動を行っています。

正式名称はOrden der Brüder vom Deutschen Haus St. Mariens in Jerusalem(ドイツ人の聖母マリア騎士修道会)であり,宗教的シンボルマークとしてはOTと表記されます。

目次

ドイツ騎士団の設立起源

第三回十字軍が1190年頃にアッコン近くの聖地を攻城した際,ブレーメンとリューベックの商人の野戦病院に起源を持ちます。

聖地エルサレムをキリスト教徒が奪還し,聖地巡礼をするものが増えました。聖地を奪還したとは言え,イスラム勢力からの攻撃は続き,巡礼者たちを襲いました。その巡礼者たちを保護するために設立された病院です。

貴族たちは十字軍が獲得した領地を護るため,病院を武装させます。ヨーロッパ本国から領地の寄進を受けるなどの援助を受け,巨大な軍事組織へと成長します。

なお,貴族たちから寄進された領地は,ドイツ騎士団領として発展をしていきます。

1199年2月16日にローマ法王イノセンス三世から騎士修道会として承認を得ることによって,病院騎士団から宗教騎士団へと変貌します。

騎士団の構成員

  • 騎士メンバー(Ritterbrüdern):軍事担当。貴族,都市市民,ミニステリアーレ出身者で構成されます。
  • 修道士メンバー(Priesterbrüdern):宗教担当。宗教祭事を行う一方で,書記官でもあり,様々な文書を残してます。
  • サリアントメンバー(Sariantbrüdern):非貴族で,騎士の配下として活動をする軽装兵や行政官。中世末期まで存在。
  • 半十字軍(Dienenden Halbbrüdern):家事や警備を行う要員。中世末期まで存在。

騎士団を統括する騎士団長は,選挙によって選ばれます。

ドイツ騎士団の歩み

ドイツ騎士団は異教徒との聖戦を使命とし,戦い続けなければならない組織でした。

ドイツ騎士団は異教徒たちのキリスト教化と騎士団内の秩序の崩壊とともに衰退していきました。

貧者への福祉と宗教活動を発端とし,再び福祉と宗教活動へと戻る歴史です。

聖地保護の役割の終焉と騎士団国家の設立

エルサレムへと続く十字軍の領土がイスラム勢力に奪い返されてしまうとと,騎士団はこの地での存在価値がなくなってしまいます。実際に1291年にアッコンが陥落し,十字軍の失敗は決定的となります。

第四代騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァ

第四代騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァ(Hermann von Salza der IV Hochmeister)は中東での戦況から,ドイツ騎士団の新たな活躍の場を求めます。そこで考えられたのが,ドイツ騎士団国家の設立です。

クマン人の侵略に悩んでいたハンガリー王は,クマン人と戦うためにドイツ騎士団の築城を許します。しかしザルツァの策略に気づいたハンガリー王は,1225年に騎士団をハンガリーから追放します。

次にザルツァはポーランドのマゾフシェ公にスラブ系民族であるプロイセン人の討伐依頼を受け,北方に移動します。ザルツァはプロイセンを騎士団領として神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世とローマ教皇グレゴリー9世に認めてもらいます。

ポーランドとドイツは以後,700年にわたり争うことになります。

北方十字軍と東方植民

ドイツ騎士団は異教徒であるプロイセン人と戦います。プロイセン人はポーランドと戦い,これまで領土を守り抜いてきた戦闘民族です。その戦いは熾烈を極めます。

しかしドイツ騎士団は中東で戦ってきたこともあり,戦闘技術では騎士団が上回り,プロイセン人を征服していきます。

元寇に先立つこと約30年。1241年にモンゴル軍が侵攻してきました。ワールシュタットの戦い(Schlacht bei Wahlstatt)です。ドイツ騎士団は軍勢2万のモンゴル軍に敗北します。

この敗北はプロイセン人を大いに勇気づけ,各地で蜂起します。無敵軍団と思われていたドイツ騎士団は戦いに敗れるようになり,キリスト教徒の虐殺が行われるようになり,積年の恨みを晴らしていきます。

しかし,ドイツ騎士団はなんとか1283年までにプロイセンの全部族を降伏させます。

反乱軍の指導者は広場で絞首刑,異教徒の聖職者は火刑などが行われていきます。反乱地域では男性は殺害され,女性と子どもは未開拓地へと追いやられます。プロイセン人の人口は激減します。

征服したプロイセン人にキリスト教への改宗を迫り、従わなければ処刑していきます。

異教徒との戦いは聖戦です。恐ろしいことに,異教徒に対しては何をしても許されるという考えでした。

征服した土地には積極的に植民事業を行っていくために,ドイツ本土から農民を呼び寄せました。「蜜とミルクの流れる国」を夢見た農民たちが植民していきます。開墾して数年間は税が免除されました。

一方,プロイセン人には重税と賦役が課せられました。そして苦情を言ってきたプロイセン人は問答無用で家ごと焼き尽くしました。キリスト教に改宗したのに,ひどい差別です。

リトアニア戦闘と騎士団最盛期

アッコンが陥落し,中東が再びイスラムのものとなると,騎士団は1309年に本拠地をプロイセン(現ポーランド)のマリーエンブルク城(Marienburg)に移します。

リトアニア戦争

異教徒との聖戦を使命とする騎士団は,次にリトアニアに侵攻します。リトアニアとの戦争は1303年から始まり,1410年のタンネンベルクの戦い(Schlacht bei Tannenberg)でポーランド・リトアニア連合軍に破れるまでの100年以上にもわたる泥沼戦争となります。

なお,1398年にリトアニア領土をお金で購入しています。

1386年,リトアニア公国の大公がポーランド王女と結婚し,同盟を結ぶことになります。そしてドイツ騎士団に宣戦布告をします。

また,リトアニア人はキリスト教に改宗することによって,戦う口実の聖戦を封じます。それにより,他のキリスト教国からの騎士団への援軍を断ち切ります。

経済的発展

リトアニアとの戦争により,略奪などを行い,騎士団の収益となります。

この時代には三圃式農業といった農業革命が起こり,穀物の生産量が増えます。その穀物を輸出することにより,経済的にも安定します。

また,聖戦のためにヨーロッパ各地から寄進などを受け,経済的にも発展していきます。

そして財政が豊かになると,今度は領地を購入して広げていきます。ポメルン,エストニアを購入し,購入した領地からさらに税収が入っていきます。

海賊の本拠地であるゴッドランド島を制圧すると,バルト海の交易の安全が保証され,経済的に発展していきます。経済的に,ハンザ同盟都市との結びつきが強くなります。

現在のバルト三国とポーランド北部がドイツ騎士団の領土となりました。

騎士団が設立された頃は,異教徒の征圧という狂信的な信条がありましたが,次第に相続権のない貴族や農民の逃げ場といいますか,受け入れ先となっていきました。貧乏貴族と農民の寄り合いと化してしまったのですね。

教養のない下級貴族が騎士団に採用されるなどしていったため,秩序が崩壊していきます。そのような者たちは法律を守らず,散財し,乱暴狼藉を働くなどしたため,民衆の心は騎士団を離れ,ポーランドに向かいました。

タンネンベルクの戦い

タンネンベルクの戦いは,中世において最も規模の大きな戦いとなりました。この戦いにより,騎士団長他幹部の多くが戦士しました。

タンネンベルクの戦いで騎士団が敗れると,騎士団は崩壊していきます。タンネンベルクの戦いで,騎士団は西プロイセンを失います。

十三年戦争

領土を失った上に多額の賠償金を支払わなければならなかったので,領民たちは重税を課せられるようになり,不満が高まります。領民たちはプロイセン連合を結成し,ポーランド・リトアニア連合と同盟し,騎士団に宣戦布告します。

プロイセンは焦土と化します。餓死する農民も現れます。

タンネンベルクの戦い後,騎士団はポーランド軍に抵抗しますが,いずれの戦いも敗北し,領土を次々と失っていきます。

ポーランド併合

騎士団はポーランドと戦うことをやめます。

1510年,アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)が総長に選ばれます。

1520年,アルプレヒトはマルチン・ルター(Martin Luther)と出会い,ルター派に改宗します。それに伴い,カトリック修道院としての騎士団は終焉します。アルプレヒトは騎士団をプロイセンから追放します。

1525年,アルプレヒトはポーランド王に臣従を近い,臣下となります。

プロイセンはその後,ホーエンツォレルン家の世襲制の領土となります。

16世紀以降

騎士団はプロイセンの領土は失いましたが,リヴォニアその他ヨーロッパ各地に寄進地を持っていました。プロイセンを追放された騎士団は,これらの残った領地での活動を維持します。

1561年までリヴォニアで活動を続け,ヨーロッパ各地では19世紀初頭まで領地経営を行っていました。プロテスタントに改宗していった地域でも,騎士団の領内はカトリックの信仰が維持されました。

ナポレオン戦争により領土を失い,オーストリアへ移動させられます。

現在は,ウィーンを本拠地とし,慈善活動や教育活動を行っています。

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