中世ヨーロッパの歴史を語る上で欠かせない存在の一つが「ドイツ騎士団(別名:チュートン騎士団)」。

名前は聞いたことあるけど、詳しくは知らないわ。
正式名称を「聖母マリア病院ドイツ騎士修道会」(Orden der Brüder vom Deutschen Haus St. Mariens in Jerusalem)というこの組織は、十字軍時代に設立された宗教騎士団の一つです。
テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団と並び称されることもあり、800年以上の長い歴史を誇ります。



聖地エルサレムでの医療活動から始まり、バルト海沿岸に巨大な国家を築き上げたドイツ騎士団は、まさに波乱万丈の歴史がるんだよ。
本記事では、ドイツ騎士団の起源からその栄光と衰退、光と影、そして現代における姿までをわかりやすく解説します。
ドイツ騎士団の誕生


ドイツ騎士団の起源は、第三次十字軍(1189-1192年)の時代に遡ります。
聖地エルサレムをキリスト教徒たちが奪還したものの、イスラム勢力からの攻撃は続いており、ヨーロッパからの巡礼者たちは常に危険にさらされていました。
1190年頃、聖地アッコン(現在のイスラエル・アッコ)の攻囲戦の最中、リューベックとブレーメンから来た商人たちが、負傷したり病気に苦しむドイツ人巡礼者や騎士たちを看護するために野戦病院を設立しました。
これがドイツ騎士団の始まりとされています。



えっ、騎士団って最初は「病院」だったの? なんだかすごく意外!
当初は純粋に慈善活動を行う宗教団体でしたが、1198年に教皇インノケンティウス3世によって正式に騎士修道会として認可を受け、「エルサレムの聖マリア病院ドイツ騎士修道会」として独立しました。
軍事組織への変貌
最初の主な任務は聖地におけるドイツ人巡礼者の保護と医療活動でしたが、十字軍が獲得した領地を護るため、次第に武装化が進みました。
ヨーロッパ本国から領地の寄進を受けるなどの援助により、やがて巨大な軍事組織へと成長していきます。



貴族たちから寄進された領地は、ドイツ騎士団領として発展するよ。
騎士たちが身につけていた白いマントに黒い十字の紋章は、後のプロイセン王国やドイツ帝国の鉄十字勲章のデザインにも影響を与えています。
騎士団の組織編成



騎士団を維持するため、それぞれ異なる役割を担った「兄弟」たちで構成されていたよ。
- 騎士メンバー(Ritterbrüdern):軍事担当。貴族、都市市民、ミニステリアーレ出身者から登用
- 修道士メンバー(Priesterbrüdern):宗教担当。祭式や文書作成・記録等を担当
- サリアントメンバー(Sariantbrüdern):非貴族の兵士や行政官。
- 奉仕メンバー(Dienenden Halbbrüdern):施設の警備や雑務を担当。
騎士団を統括する騎士団長は、選挙によって選ばれます。


東方への転換とプロイセン征服


1291年にアッコンが陥落し、十字軍の失敗が決定的となると、ドイツ騎士団は存在価値の危機に直面しました。
13世紀初頭、騎士団の矛先は聖地エルサレムから東方の異教徒たちに向けられることになります。
ドイツ騎士団は東方植民(Ostsiedlung)の一環として、異教徒の住むバルト海沿岸地域(現在のポーランドやバルト三国)へと進出しました。


特にプロイセン地方では、異教徒プルーセン人を征服し、キリスト教化を進めていきます。
第四代騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァ
第四代騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァ(Hermann von Salza der IV Hochmeister)は中東での戦況から、ドイツ騎士団の新たな活躍の場を求めました。
そこで考えられたのが、独立したドイツ騎士団国家の設立。
最初はクマン人の侵略に悩むハンガリー王の許可を得て築城を試みましたが、ザルツァの野心に気づいたハンガリー王は1225年に騎士団を追放。
次にザルツァはポーランドのマゾフシェ公から、スラブ系民族であるプルーセン人の討伐依頼を受けて北方に移動。
プロイセンを騎士団領として神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世とローマ教皇グレゴリー9世に承認してもらうことに成功しました。この決定が、ポーランドとドイツの700年にわたる争いの発端となります



この承認で、ポーランドとドイツは700年にわたる争いが始まるよ。
プルーセン人との激戦
ドイツ騎士団は異教徒であるプルーセン人との戦いを開始しました。
プルーセン人はポーランドとの戦いを通じて領土を守り抜いてきた戦闘民族で、その戦いは熾烈を極めました。
しかし、中東で戦ってきた経験により戦闘技術で上回る騎士団が、徐々にプルーセン人を征服していきます。
モンゴル軍の侵攻と反乱
1241年、元寇に先立つこと約30年前
ワールシュタットの戦い(Schlacht bei Wahlstatt)では、ドイツ騎士団も参加したポーランド・ドイツ連合軍がモンゴル軍に敗北を喫しました。
この敗北はプルーセン人を大いに勇気づけ、各地で蜂起が発生しました。
無敵軍団と思われていたドイツ騎士団が敗れることで、キリスト教徒の虐殺が行われ、積年の恨みが晴らされていきます。
征服の完了と残虐行為
それでもドイツ騎士団は1283年までにプルーセンの全部族を降伏させました。
反乱軍の指導者は広場で絞首刑、異教徒の聖職者は火刑に処されます。
反乱地域では男性が殺害され、女性と子どもは未開拓地へと追いやられ、プルーセン人の人口は激減しました。
反乱軍の指導者は広場で絞首刑、異教徒の聖職者は火刑などが行われていきます。男性は殺害され、女性と子どもは未開拓地へと追いやられ、プルーセン人の人口は激減。
征服したプロイセン人にはキリスト教への改宗が迫られ、従わなければ処刑されました。
異教徒との戦いは聖戦です。



これって、大虐殺よね。ひどすぎないっ!



異教徒に対しては何をしても許されるという考えだったからね。
植民事業と差別政策
征服した土地には積極的に植民事業が行われ、ドイツ本土から「蜜とミルクの流れる国」を夢見た農民たちが呼び寄せられました。
開墾して数年間は税が免除される優遇措置もありました。
一方、プルーセン人には重税と賦役が課せられ、苦情を言ったプルーセン人は問答無用で家ごと焼き尽くされるという過酷な差別が行われていました。



キリスト教に改宗したのに、何このひどい差別!


古プロイセン語を話すプルーセン人は、17世紀から18世紀初頭には消滅したとされています。


騎士団の最盛期と衰退


アッコンが陥落し、中東が再びイスラムのものとなると、騎士団は1309年に本拠地をプロイセン(現ポーランド)のマリーエンブルク城(Marienburg)に移します。
異教徒との聖戦を使命とする騎士団は、次にリトアニアに侵攻を開始しました。
リトアニア戦争と経済発展
リトアニアとの戦争は1303年から始まり、1410年のタンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニア連合軍に破れるまでの100年以上にもわたる泥沼戦争となりました。
この時代、戦争による略奪や三圃式農業といった農業革命による穀物増産、そして聖戦のためにヨーロッパ各地から受ける寄進により、騎士団は経済的に発展します。


財政が豊かになると、ポメルンやエストニアなどの領地を購入して領土を拡大していきました。
海賊の本拠地であるゴッドランド島を制圧すると、バルト海の交易の安全が保証され、ハンザ同盟都市との結びつきも強まります。
現在のバルト三国とポーランド北部がドイツ騎士団の領土となりました。
タンネンベルクの戦いと崩壊
1410年のタンネンベルクの戦いは、中世において最も規模の大きな戦いの一つとなりました。
1386年にリトアニア公国の大公がポーランド王女と結婚し同盟を結び、さらにリトアニア人がキリスト教に改宗することで、騎士団は聖戦の口実を失いました。
この戦いで騎士団は決定的な敗北を喫し、騎士団長をはじめ幹部の多くが戦死しました。
騎士団は西プロイセンを失い、多額の賠償金を支払わなければならなくなります。
十三年戦争と領土喪失
重税を課せられた領民たちの不満が高まり、プロイセン連合を結成してポーランド・リトアニア連合と同盟し、騎士団に宣戦布告しました。
プロイセンは焦土と化し、餓死する農民も現れます。
タンネンベルクの戦い後、騎士団はポーランド軍との戦いで連敗を重ね、領土を次々と失っていきました。
宗教改革と騎士団の大きな転機


1510年、アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク(Albrecht von Brandenburg)が総長に選ばれます。
1520年、アルプレヒトはマルティン・ルターと出会い、ルター派に改宗。


それに伴い、カトリック修道院としての騎士団は終焉を迎えます。
1525年、アルプレヒトはポーランド王に臣従を誓って臣下となり、プロイセンはその後、ホーエンツォレルン家の世襲制の領土となります。


16世紀以降の騎士団
騎士団はプロイセンの領土は失いましたが、リヴォニアその他ヨーロッパ各地に寄進地を持っていました。
プロイセンを追放された騎士団は、これらの残った領地での活動を維持します。
1561年までリヴォニアで活動を続け、ヨーロッパ各地では19世紀初頭まで領地経営を行っていました。
プロテスタントに改宗していった地域でも、騎士団の領内ではカトリックの信仰が維持されています。
ナポレオン戦争により領土を失った騎士団は、オーストリアへ移動。
現在はウィーンを本拠地とし、慈善活動や教育活動を行っています。
現在のドイツ騎士団の公式サイト
まとめ
ドイツ騎士団の歴史は、貧者への福祉と宗教活動から始まり、軍事組織として巨大化し、最終的に再び福祉と宗教活動へと回帰した800年の物語です。
その歩みは中世ヨーロッパの宗教、政治、社会の変遷を如実に映し出しており、現代においても重要な歴史的教訓を与えてくれる存在といえるのではないでしょう。


コメント