祭りは人々の最大の楽しみの一つ。単調でつらい毎日は、この日を糧にして頑張って日々を過ごしていました。
今も昔も洋の東西を問わず、(一部の)人々の祭りへの意気込みは変わりません。
年に一度の地元の祭りを心待ちにして生活し、祭の日には思いっきりはっちゃける人って、いるよね。
年中行事としての祭りもありますが、領主の人生に関わる特別な日には大規模な祝祭が行われ、数日間続くこともありました。
祝祭の様子は、ドイツ中世騎士物語の傑作「ニーベルンゲンの歌」に何度も登場します。
本記事では、領主に関係する祭りがどのような時に行われ、どのように進行していったのかについて紹介します。
今も昔も人々のお祭り好きや、パーティー好きは変わりません。
祝祭を開催するのはどんなとき?
祭りを行うときと言えば、たいてい「収穫祭」「春祭り」その他クリスマスなどのキリスト教の祭日でした。
しかし祭りを行うにはお金が必要です。それもかなり莫大なお金が必要でした。それゆえ財政上の問題から、それほど頻繁に祭りを行うことはできません。
年中行事としての祭り以上に最も盛大に行われた祭りは「領主関連の祝い事」です。
- 洗礼
- 婚約
- 結婚
- 戦勝(新しい領地の獲得)
- 相続(先代の死亡に伴う新領主の誕生)
- 昇進(新しい称号をもらった時)
- 十字軍からの生還
- 騎士叙任祝い
今に続く現代の世界各国の王室や皇室を思い浮かべてると理解しやすいです。
- 前国王の葬儀
- 新国王の即位式
- 国王・皇太子の結婚式
- ……などなど
TVやネットで見たことがある人は多いのではないでしょうか。
今上天皇陛下の即位式やエリザベス二世前英国女王の告別式は、記憶に新しいね。
多くの場合、父親の葬儀が最初に客人を招待して行うものが、新しい城主にとって最初で最大の祝賀会でした。
父親の死と同時に嫡男は新しい領主として「就任」します。自分の同僚や家臣たちに最高の自分を演出し、華やかな自分を見せつけたいと思うのは、いつの時代も変わりません。
祝祭の準備
祭りの準備は1ヶ月以上も前から行われました。祭りに必要な準備期間に関しては、今でも変わらないのではないでしょうか。現代も祭りの担当者は数ヶ月前から準備しているのを見かけます。
ます四方に使者を送り、招待客の参加・不参加をまず確認することから始めます。
電話もネットもない時代、相手の意向を聞くために相手に応じて使者を立てていたよ。
祝祭開催の噂は旅人の間にも広がり、人から人へと瞬く間に口コミでも広がっていきました。開催予定の城には、祭りを楽しみたい人、祭りで儲けたい人など、さまざまな人が集まってきます。
出席者とその従者の人数が確定したのなら、その数に応じて物資調達の手配をしなければなりません。
領地の農民たちからどのような食料品や手工業品をどれだけ献上させるのか。地元の農村から調達できないものは都市の商人から購入しなければなりません。
何をどれだけ購入するのか、城主夫人がいろいろと綿密な計画を立て、使用人を向かわせます。
祭りにはエンターテイメントも欠かせない要素です。
- 大道芸人
- 商人
- 歌手
- 演奏家
- 詩人
など。有名な詩人や大道芸人、演奏家、ミンネゼンガー(Minnesänger)をはるばる南仏から招待していることもあります。
今風に考えると、お笑い芸人やタレント、露天商、マーチングバンドを準備したってことだね。
中でもミンネゼンガーは婦人の間で大変人気がありました。「ニーベルンゲンの歌」「アーサー王と円卓の騎士」、その他英雄の物語や教訓詩を歌っていたようです。
人と物が揃ったのなら、最後は会場の準備です。
中世領主の祝祭には馬上槍試合(Turnier:英語のトーナメント)が欠かせません。野外ではトーナメント会場の設営が行われます。
また、城内では客人をもてなすため、大掃除が行われました。城の床に敷かれている藁も、新しい藁に取り替えられました。
中世城のでは、床に藁を敷いていました。
祝祭の進行
祝祭当日の流れは、だいたい決まっていました。大まかには、以下の通り。
- 礼拝
- 馬上槍試合
- 宴会
礼拝
祭りの朝は、厳粛な礼拝から始まります。
日本でも、祭りを神に奉納するために、神社での祈祷から始まる祭りがあるよね。精神的にそれと同じなのかも。
飾り付けられた教壇の上から、神父さんによる、
暴飲暴食は慎みましょう
と言う説教を聞くことから始まります。
「暴飲暴食は謹みましょう」だなんて、これから祭りを始める者たちにとって馬耳東風。実際に、誰も真剣に受け止めてはいなかったようです。
最大の見どころー馬上槍試合
城の周りに馬上槍試合の場所が整えられ、祭り最大の催し物、馬上槍試合が行われます。馬上槍試合は13世紀に最も発展しました。
馬上槍試合は一種の戦争ごっこスポーツで、自分の馬術、武術、勇気を証明する場でもあります。ただの遊びとはいえ、本気で殴ったりするので死人もかなりでました(西洋のスポーツが技よりも力のぶつかり合いの体力勝負のものばかりなのは昔から)。
馬上槍試合は騎士たちの晴れ舞台!ここで活躍することにより、主君や貴婦人たちからの寵愛を受けられ、活躍の場を見せることができなければ100年の恋も一瞬で冷めてしまいます。
馬上槍試合で得られる賞金を糧に生活するプロも次第に現れるようになり、賞金稼ぎのために諸国を放浪していた騎士もいたようです。
馬上槍試合(トーナメント)について詳しく知りたい方はこちらをどうぞ
城の周辺のアトラクション
馬上槍試合の会場周辺では、芸人一座による数十のアトラクションが用意されていました。綱渡り、手品、人形劇、詠会、占い等など。
いわばメイン会場周辺の小さなアトラクション会場。
- 熊使いが熊を踊らせ、人形遣いが小さなステージで勇敢な騎士が聖地で異教徒を倒した物語などを演じ
- 歌人たちは城主が気に入らない隣人をからかう歌を詠み、投げ銭を集めて
- 下女やドライフルーツや焼きたてのパンを配り、台所から牛を焼く匂いが漂う
城の周りには乞食も集まります。祭りの日はパンや果物等、ごちそうの一部が下女より恵んでもらえることを知っているからです。
宴会(パーティ)
高級官僚の訪問や祝賀パーティーのときは、特に豪華なごちそうが振る舞われました。
夕方になると、花や旗印で飾られた大広間こと騎士の間(Rittersaal)に客人たちを案内。
城主と夫人、主賓のみが上座のハイテーブルにある肘掛け椅子に座り、他の客(上流階級)はみんな長椅子に座り、その従者たちはその周りの壁際のベンチにひしめいていました。
初期の頃は男女別々になり、それぞれの部屋で食事を摂っていました。時代が下ると、男女交互に座って食事をするようになりました。
食事
11品目、12品目の料理を作ることはすでに大仕事。調理場はきっと戦争状態だったに違いありません。
食事は銀や金の器に入れ、小姓たちが大広間に運び入れます。
領主夫妻と主賓はすべてのメニューに手をつけることができましたが、それ以外の客はその余り、さらに外側に位置する従者たちはさらにそのお零れにしかありつけませんでした。
ハイテーブルは食事の約半分を占め、他の貴族客は4分の1を、残りの客はさらにそのおこぼれの食事で満足しなければなりませんでした。
すべての客人に対して平等に料理が振る舞われるわけじゃないんだ。
メインディッシュの肉だけは全員に平等に行き渡るようにするのが、腕の見せ所だったよ。
誰もが不満を抱かないように平等に切り分けられれば、人々から称賛されます。
当時、食器類はまだナイフとスプーンのみでフォークはありません。食事に用いるナイフは、普段から腰に差している短剣です。スプーンは木製。自分専用のものを普段から持ち歩いていました。
お皿はハイテーブルにしかなく、それ以外はスライスした固いパンを皿代わりにして用いていました。
肉や野菜を一口大に切ってパンの上に乗せ、手掴みで食べました。熱くて手で持てないものは、ナイフをフォークの様に食べ物に突き刺して口に運びました。使用済みのパンは城の外でおこぼれを待っている乞食に与えます。
前菜
前菜はサラダとスープです。エンドウ豆の粥に脂身と牛乳を入れてスープを作り、仕上げに前処理した豚肉を入れて軽くかき混ぜたものなどが出されました。
「シナモンクラフトスープ」とは、茹でた鶏肉をワインを中心に水で煮込んだもので、その上に濃厚なシナモンソースをかけたものです。
メインディッシュ
メインディッシュはジビエ料理になります。
シカやカモシカの焼いた腿肉、白鳥やサギ肉を衣で包んで焼いたもの、ウサギの焼いたものに生姜ソースをかけたものなどがありました。
クジャクは祝宴の華。
初期のキリスト教徒にとって「極楽の鳥」であり「不死の鳥」とされた鳥、クジャク。
クジャクのロースト肉には羽帽子をかぶせた見事な装飾が施され、羽帽子を外すときにテーブルスピーチを行うなど、クジャクは特別な存在でした。
アーサー王伝説には、1羽のクジャクの肉を150人の客人に行き渡るように切り分けたというものがあるほどだよ。
1400年頃になると、クジャクよりもはるかに美味しいキジが喜ばれるようになりました。
また、スポンジ生地で包んだハトのパイ、マトンのローストレッグ、焼鮭やヤマウズラのソイバソース等などがテーブルを彩りました。
デザート
最後はリンゴや洋ナシのスライス、葡萄、トーストした白パン、外国の果物(オレンジ、ナツメヤシ、イチジク等)や郷土もの(ウイキョウ、生姜、ネズの実)の砂糖漬けが出されました。
「工芸菓子」もありましたが、マンネリ化していたのか、目にとまることはあまりなかったようです。
余興
音楽を奏でたり歌ったり、サイコロやカードで遊ぶことは少人数でもできました。
『Master of the Codex Manesse, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で』
ミンネザング(Minnesang)
コース料理の合間に、有名で高額な報酬を得ているミンネゼンガーが登場し、会場を盛り上げます。
これらのトルバドールは主に南フランス出身者であり、歌人であると同時に詩人や騎士でもあることが多いです。主にミンネを題材にした歌を披露していました。
宴もたけなわの頃、ニーベルンゲンの歌やアーサー王と円卓の騎士たちの物語など、人気のある偉大な英雄譚な一部を歌い上げます。
これらの歌は同時に教育的な詩にもなっており、高貴な騎士はどのように振る舞うべきなのかという例を示していました。歌手たちはまた、時事問題も巧みに織り交ぜ、情報伝達の役割も担っていました。
ダンス
最後の料理が運ばれると、吟遊詩人たちがバイオリンを持ってきて、ダンスのための演奏を始めます。
紳士淑女がお互いに歩み寄って、城の中庭へと移動。
夜も更けるにつれて踊りは激しさを増し、貴族のカップルは平民たちと同じように大騒ぎ。夜が明けるまで、踊り明かしました。
食後のダンスは、消化を助けるものとしても歓迎されていたよ。
祭りを楽しむ人々の姿は今も昔も変わらないのではないでしょうか