マルチン・ルター(Martin Luther)

用語&人物集

マルチン・ルターといえば,社会の歴史教科書にプロテスタントを起こした宗教改革の人物として登場します。

中学時代の社会科の先生が

社会科中学教師
社会科中学教師

ルターの名前(まるちん)なんて,俺,恥ずかしくて,よう言えんわ~。

と下ネタチックに言うお方だったお陰で,名前だけは強烈にインプットされました。そのつかみのお蔭で,男子が喜んでいたのは言うまでもありません。

キリスト教を知らない仏教徒が書いてますので,間違っていたらご指摘ください。

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マルチン・ルターの生涯

1483年,坑夫の次男としてザクセンにある小さな村,アイスレーベン(Eisleben)で生まれます。

生後半年で,一家はマンスフェルト(Mansfeld)へ引っ越します。父は後のここの市議会議員になり,マルチンはこの地の学校に通っています。

父の要望でエアフルト(Erfurt)大学で法学を学びます。

1505年,エアフルトで流行した疫病と激しい雷雨に命の危機を感じ,エアフルトにあるアウグスティヌス修道会(Augustiner-Eremiten)に入ります。

2年後司祭となります。1511年ヴィッテンベルク(Wittenberg)の聖書の教授職(Bibelprofessur)を得,翌年神学の博士号を取得します。

1517年10月31日,宗教改革の出発点ともなる免罪符反対の95の命題を公表します。

ルターの新しい命題とは,神の裁きにすがるのではなく,より深いキリスト教信仰によって父なる神の愛と慈悲にすがるものである,魂の救いとは心の底からするものであって,免罪符を買って手に入れるものではない,というものでした。

このことは,免罪符の販売が収入源となっていたカトリック教会から激しい反発を受けることになります。

1521年,ヴォルムス帝国議会(Wormser Reichstag)で論文の撤回を求められるが拒否します。破門され,帝国追放されてしまいます。

ザクセン選定候フリードリッヒ三世(Kurfürst Friedrich III.)に保護されることになります。1521年5月4日から1522年3月1日までヴァルトブルクに匿われます。彼はここで13の論文を書き,新約聖書をドイツ語に翻訳しました。それまで聖書はラテン語で記されていました。

ヴァルトブルク城には,ルターの部屋が残されています。

ユネスコ世界文化遺産,ヴァルトブルク(Wartburg)城
言うまでもなく,アイゼナハ(Eisenach)にある超有名な城です。よくワルトブルク城と表記されているのを見かけますが,ドイツ語読みを正しく表記すればヴァルトブルクとなります。1206年にここで行われたと言われる歌合戦の伝説を,リ...

このときルターが用いたドイツ語は,現在の標準ドイツ語のベースになっています。

1534年,ルター約聖書全巻が発表されます。

1546年,アイスレーベンで亡くなります。

ルターの悩みと教え

ルターは神学の教鞭をとる傍ら,神学の研究を続けます。

「神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない」

ということに,ルターは悩み続けます。

そして最終的にたどり着いたのが,

正しいものは信仰によって生きる

ということです。ここにたどり着いたことで,ルターはようやく悩みから開放されることになります。

結婚

カトリック教会の聖職者は,原則として結婚は禁止されていますが,プロテスタントの牧師は結婚することができます。

肉体的欲望は結婚によって正当化され,罪にならない

ということで,ルター自信も41歳のときに元修道女と結婚し,円満な家庭を築いています。

もちろん,結婚はカトリック教会側から猛反発を受けることになります。

独身を貫けば人は増えませんし,昨今のカトリック教会の聖職者達による性暴力を考えれば,牧師が結婚して子供をもうけることは,あながち間違った教えではないように思います。

聖書のドイツ語翻訳

聖書に書かれていないことは認めることができない

というルターの教えは,聖書を拠り所としています。

聖書は,当時のヨーロッパの共通言語であるラテン語で書かれていました。

しかし一般庶民はラテン語が読めません。

そこで,ルターは聖書の教えを一般民衆が理解できるように,ドイツ語に翻訳しました。翻訳本はまたたく間に広まりました。

ルターの記したドイツ語は,標準ドイツ語の基礎となっています。ゆえに,ザクセン地方の言葉が標準となっています。

さまざまな地域のドイツ語を聞くと,外国人にとってザクセン地方のドイツ語が訛っていなくて,一番聞き取りやすいです。

ドイツ農民戦争

ルターの言葉に,苦しい生活をしていた農民たちが領主に対し反乱を起こします。

最初は農民運動側を応援していたルターでしたが,反乱が暴力行為になるにつれ,批判するようになります。

そして農民側ではなく領主側について,鎮圧に賛同します。

この動きに,南ドイツではルター派は評判が失墜し,支持を失います。

現在でも南ドイツはプロテスタントよりもカトリックの多い地域となっています。