フルダ(Fulda)近くのアイヒェンツェル(Eichenzell)にある四翼からなるバロックシュロス。
わずか30年しか土が採れなかったため幻とも言われるフルダ焼の貴重な展示を、この城で見ることができます。
ファザネリー城の構成と見どころ
磁器博物館
磁器博物館には、フルダ焼きのみならず、マイセンや中国、日本の磁器も展示されています。
中には、今の科学技術で持ってしても、どのように色を出していたのか分からない見事な彩色皿たちがあります。
技術を絶やすこと無く継承していくとは,かくも難しいものなのか。
見事な青色だったために、ひじょうに残念です。
フルダ焼はマイセン焼きに比べ厚みがあります。フルダ焼のシンボルマークは、マイセン焼のシンボルマークとよく似ていますが、よく見ると違います。
マイセン焼きの偽物ではありません。
希少性から考えると、フルダ焼きのほうが高価です!
考古学博物館
ドイツ国内最大の古美術コレクション。収集品は、ヘッセン方伯家の私的収集物が好意により展示されているものです。
個人のコレクションっていうのがすごい!
古代ギリシアの銅像や粘土像の展示が中心です。古代ギリシアが好きな人におすすめの博物館。
ファザネリー城の公式サイト
ファザネリー城の歴史年表
ファザネリー城の建設期
- 1710年頃
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ヨハン・ディエンツェンホーファー(Johann Dientzenhofer)が設計したと思われる寄棟屋根のシンプルな2階建ての城が建てられました。
- 1730年頃
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中庭の西端として中央門を設けて増築されました。いわゆる旧小城(Alte Schlößchen)です。建物所有者のアドルフ・フォン・ダルベルク(Adolph von Dalberg)侯爵の名を取って「アドルフスホーフ」と呼ばれるようになります。
- 1739年
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ダルベルクの後継者である後の領主司教アマンダス・フォン・ブゼック(Amandus von Buseck:1737-1756)のもと、四方を囲まれた中庭、三面のエーレンホーフ、騎士の家、バリケード、衛兵の建物を備えた現在の広い複合施設が加えられました。
19世紀以降
- 1813年
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1803年にナポレオン戦争が勃発し、被害を受けた病人や負傷者のための軍事病院として使用されます。しかし最後は略奪と破壊を受けて、城は荒廃してしまいました。
- 1816年
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1810年にフランクフルト大公国の一部になっていましたが、フルダとともにヘッセン選定侯国に移管されました。ヘッセン選帝侯の領土になることは、長年の悲願で、城の再建が望まれました。
- 1825年~27年
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選帝侯ヴィルヘルム2世が建築家ヨハン・コンラッド・ブロミス(Johann Conrad Bromeis:1788 – 1854)に依頼して修復し、内部も一部改修されました。
バロック様式の庭園は、景観庭園として整備し、現在の庭園の基礎になりました。
ブラームスヘッセン選帝侯夫人がひじょうに素晴らしい音楽性をお持ちなので、ピアノソナタヘ短調作品34bを作曲させてもらったよ
- 1866年
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ヘッセン選定侯国がプロイセン王国に併合されると、フィリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル(Landgraf Friedrich Wilhelm von Hessen-Kassel)方伯に返還され、方伯の私邸として使用されました。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦で、城は空襲を受けて深刻な被害を受けました。
- 1949年
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ヘシアンハウス財団(Hessische Hausstiftung)によって修復され、城は博物館になりました。
博物館施設の計画と実施は、ヘッセン方伯フィリップ・フォン・ヘッセン(Philipp von Hessen)が行ったとされています。