ブルクとは軍事機能を持つ城のことをいいます。つまり城砦です。周辺住民の安全を確保する場所でもあり、領主の館でもあったところです。
初期のブルク
先史時代より外的に襲われたときに逃げ込む“Fliehburgen(避難ブルク)が小高い丘の上に存在していました。時代が進むと、そこは上流階級が屋敷を構えるようになります。
9,10世紀、ブルクは水掘りのある小さな塔を持つようになります。人工的な丘(独:Motten、英:motte)を作り、その上に塔を建てました。建物も柵も基本的に木製です。建物は下の階は石造りでも、上階は木製でした。このようなブルク様式は、ノルマン人が得意としていました。
大きな水城はこの頃の城に由来していることが多いです。
ブルクが発展した中世
11,12世紀ごろ、本格的に山城が登場するようになりました。山の頂上や、出っ張りの部分に城を築き、突出した部分に城を築いた場合尾根側には堀を設けました。
ローマ帝国の国境を監視する見張り塔を“Burgi”と読んでいたことから、ドイツ語の“Burg”という言葉が派生しました。
住居塔としてのブルクに発展します。底辺が10m四方または15×20m、壁の厚さ2~3mで何階もある塔で居住できる空間がある塔が出現しました。住居塔は“Kemetate”と呼ばれます。
このブルクの時代こそが騎士の時代です。騎士の住居こそがブルクで、ブルクの主人こそ騎士です。
ブルクは領主が街道をコントロールしたり、境界を守備したり、軍事的中心地として建てられました。戦争時、周辺住民はブルクに逃げ込むことになっています。いくつかの文献では、実際に周辺住民が避難してきたという記述もあります。しかし、すべてのブルクでそれが許されていたとは限らないと思われます。
基本的には攻撃よりも敵の攻撃から守ることを主体として建てられています。
しかしこのような中世のブルクは剣と楯と弓の時代はよかったのですが、火器が発達してくると時代に合わなくなっていきます。
地域によって差はありますが、ドイツ中央部(ヘッセン)では1150年から1520年までゴシック様式、1550年以降はルネッサンス様式が見られるようになりました。
ブルクの時代の終焉
1550年ごろ、時代は住居と軍事的要塞を兼ね備えたブルクから、居住のためのシュロス(Schloss:城館)と軍事的要塞(Festung:要塞)へと機能分化し、ブルクの時代は終焉することとなります。
そしてブルクの時代の終焉とともに騎士の時代も終わりを迎えています。
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