古代から中世への変換点はいつなのか。
ドイツにおける中世の始まりは、375年のフン族の襲来を始まりとする説が一般的です。
フン族の襲来によりゲルマン民族の大移動が発生し、移動してきたゲルマン民族により古代ローマ帝国が滅び、ゲルマン民族のフランク族によるフランク王国が建国されました。(フン族の襲来は、453年のアッティラ王の死により終了しました)
フン族の襲来に始まる中世時代は、大きく3つの時代に分けられます。
- 中世初期:375年からカール大帝(またはシャルルマーニュ:Karl der
Große )の時代まで - 中世中期:1268年のシュタウフェン朝の終わりまで
- 中世後期:1268年以後
中世とはどんな時代だったのか、本記事では3つの時代区分のうち①の中世初期の世界をみていきます。
今も昔も、考え方の根底は同じ
なんかとっても、残酷な世界なんですけど……。
ゲルマン諸民族による部族国家の建国
3世紀の中頃には、フランク族がライン川流域を襲撃している記録がありますが、ローマ軍の力はまだまだ強く、ライン川を超えることはありませんでした。
しかし5世紀にもなると、ガリア地方にローマの力はあまり残っておらず、ゲルマン民族の侵入を許すことになります。
ゲルマン民族の諸部族がローマ帝国内に各地で侵攻しはじめ、各地でゲルマン民族による部族国家が設立されました。
大部族として下記のような部族がありますが、これ以外にも多くの小部族があり、それぞれ王が存在していたことが、タキトゥスの記録に残っています。
- ヴァンダル族:北アフリカまで移動
- 西ゴート族:ロワール地方とプロヴァンス地方
- 東ゴート族
- ランゴバルト族
- ブルグント族:レマン湖畔、レーヌ川、ソーヌ川、ドゥブス川沿い
- チューリンゲン族
- バイエルン族(「野性的」という意味?)
- フランク族(「勇敢」という意味?)
- ザーリア族:フランク族の亜部族
- ザクセン(サクソン)族
- アラマン族(「大胆」という意味?):スイス北東部、ヴォージュ地方
ゲルマン民族がローマ帝国西部に築いた帝国は、ローマ系住民に比べ数的・文化的に圧倒的に不利であったこともあり、部族語と文化を捨て去ります。
本来の定住地から切り離されたゲルマン民族は、ローマ系住民に対し薄い支配階級としての存在した戦闘民族。西へ移動した部族ほど、独自のアイデンティティーを失っていきました。
フランク族の人口は、ガリア北部の総人口の約20%以下を占めているに過ぎなかったといわれています。
人口の大多数を占めている被支配者層のローマ系住民に、自由はありませんでした。
メロヴィング朝:フランク王国の建国
ガリアを征服したのは、フランク族ではなく、フランク族の王である
ゲルマン民族の移動によりローマ帝国が滅び、フランク王国が建国された時代。
ローマ軍vs.ゲルマン民族の争いだけにとどまらず、多くはゲルマン民族vs.ゲルマン民族の権力闘争、襲撃、戦争が多くを占めています。
東ゴート国王テオデリック(Theoderich:471-526年)は、積極的な外交政策により部族間抗争を避ける努力をしてきましたが、テオデリックの死により、再び部族間の争いが目立つようになります。
フランク族は、元々の居住地域との繋がりを維持したまま、拡大政策を続け、諸部族を支配下に組み入れていきました。
フランク文化の中心地域があったことを意味しているよ
フランク族の拡大は主に西側や南側で、ライン川東側への進出は当初ゆるやかでした。
5世紀末から6世紀にかけて、フランク族はライン川(Rhein)中流域、マイン(Main)川下流域、ネッカー(Necker)川沿い、タウバー(Tauber)川沿いの土地を手に入れ、ザール(Saal)川に沿ってさらに東へと進みます。
クローヴィス一世(Clodwig I.:治世482-511年)の時代
クローヴィス一世は、フランスでは初のフランス王とされる人物。
カトリック教会に改宗し、ローマ皇帝から執政官を任ぜられたことで、ローマとゲルマンの伝統の融合が進みました。
- 官職精度
- 都市地区キウィタス(Civitates)の司教領・伯爵領として存続
- 税の徴収
- ラテン語とその文字
ローマ時代の城塞都市や砦が多く残っていたため、地域によっては地方行政の中心地となりました。
行政面ではガロ=ローマの支配階級の助けが必要であったため、ローマの元老院貴族家系が重要な地位に復帰していきます。
- 486年
-
ローマ軍司令官シアグリウス(Syagrius)はクローヴィスに敗北し、西ゴートに逃げ込むもクローヴィスに引き渡されて殺されてしまいます。
セーヌ川までフランクの支配地域となり、フランクの中心地域となりました。その後、494年にかけて、ロワール川まで進出。西ゴートと国境を接することになります。
- 496/97年頃
-
アレマン族に勝利。アレマン族の最後の国王の名は知られていません。
- 499年
-
一夫多妻生活をランスでカトリックの洗礼を受けます。王と一緒に三千人のフランク人が一緒に洗礼を受けました。
- 507年
-
アラリック率いる西ゴート族をヴイエの戦いで撃破。
- 508年
-
皇帝アナスタシウス一世(Anastasius I.)はクローヴィスをローマの執政官に任命し、紫衣を贈られ戴冠。
住民の多数を占めるガロ=ローマ人の目を意識したローマ式の儀式だよ
- 511年
-
自分の支配下にあるすべてのフランク族を「フランク王国(regnum Francorum)」に統一して死去。
クローヴィスの息子たちによる征服活動
クローヴィス一世によって統一された国は、ゲルマンの伝統に則って息子たちに分割相続されました。息子たち(テウデリク、クロタール、クロドメル)は父親に劣らず戦争好きで、攻撃的な拡大政策を続けました。
分割相続はされましたが、兄弟間の争いや断絶による統合などで、かろうじて永続的な分割は免れていました。
チューリンゲン王国の滅亡
東ゴート王国のテオドリック大王と同盟関係を結んでいた間は、フランク王国の拡大を阻止することができていましたが、テオドリック大王の死とともに、チューリンゲン王国にはフランク王国の魔の手が忍び寄ってっきます。
531年、クローヴィス一世の息子テウデリク(Theuderich)とクロタール(Chlothar)は、チューリンゲンを攻撃し、勝利。
チューリンゲン国王ヘルミナフリート(Herminafried)は、テウデリクとクロタールの不和により、なんとか逃げ延びますが、3年後、和平交渉を口実に呼び出され、殺されます。
国王を失った国民に待っていたのは、死と恥辱、追放と奴隷化(ほぼ民族浄化の惨殺)。
チューリンゲン王女ラデグンダ(Radegunde)は、クロタールの妻にされてしまいます。
チューリンゲンの王女を妻とすることで、チューリンゲンの相続権を主張したかったんだろうね
王女はその後、逃げ出して亡命し、修道院に出家。
チューリンゲン王女の言葉は、チューリンゲン族滅亡の悲劇と悲しみを現在に伝えます。
王女の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうになる。あまりにも悲しすぎる運命じゃないの。
ブルグント王国の滅亡と兄弟闘争
第一ブルグント王国がフン族の攻撃を受けて滅んだ後は、クローヴィス一世の息子たちが分割統治していました。
テウデリクはブルグント王女と結婚していたにもかかわらず、ブルグント王国に攻め入り、国王を捕らえて殺してしまいます。
自分の欲望のために、義父を殺しちゃうなんて……
それがどうも妻であるブルグント王女がけしかけたらしいんだよ。恐ろしいことに……
コメント