マルティン・ルターといえば、社会の歴史教科書にプロテスタントを起こした宗教改革の人物として登場する有名人。
16世紀のヨーロッパに深く影響を与え、その後の歴史の流れを決定づけた人物です。

アウグスティヌス会修道士であり、神学教授であり、宗教改革の生みの親。
ルターは神の恵みの約束とイエス・キリストによる義認こそがキリスト教信仰の唯一の基盤であると考え、当時のローマ・カトリック教会の誤った発展を是正し、福音に基づく本来の姿に「再形成」することを目指してしました。
マルティン・ルターによる宗教改革は、ヨーロッパの歴史において大きな転換点。
キリスト教会だけでなく、歴史にも大きな影響を与えています。
本記事では、マルティン・ルターの生涯とその功績について、紹介します。
若きルターー学究生活と心の葛藤


ルターは1483年11月10日、マンスフェルト(Mansfeld)伯爵領のアイスレーベン(Eisleben)で、銅山技師の次男として生まれました。父は後に市議会議員になっています。
- 1490年~1497年
-
マンスフェルトのラテン語学校に通い、以下のものを学びます。
- 文法
- 論理学
- 修辞学
- 音楽
- 1498年~1501年
-
その後、マクデブルクのドーム学校、アイゼナハの聖ゲオルゲン教区学校で学び、ラテン語を流暢に話せるようになりました。
当時はどのくらいの人がラテン語を使っていたんだろう?でも、流暢に話せるようになったのはすごい。
- 1501年
-
エアフルト(Erfurt)大学芸術学部へ入学。1505年1月6日に文学修士号を取得しました。
修道士の道へ
父の希望で、ルターは法学を学び始めます。



法学を学ばせることで、市議会議員の地位を継がせたかったのかしら?
- 1505年
-
マニフェルトからの帰路の途中、ルターは激しい雷雨に遭います、激しい雷雨に死の恐怖を覚えたマルティンは、
マルティン・ルター聖アンナ様。この雷雨の中、助けていただけたら、私は修道士に成って、一生神に使えることを誓います。お願いします。助けてください。
と言ったかどうかはわかりませんが、激しい雷雨の中、聖アンナに修道士になることを誓願したことは事実です。
そして7月17日、エアフルトのアウグスティヌス修道士会(Augustiner-Eremiten)に入会します。
このとき、エアフルトではペストも流行していました。
- 1507年
-
ルターは司祭に叙階されます。
- 1508年
-
ヴィッテンベルク(Wittenberg)に移り、道徳哲学を教え、翌年聖書学氏の学位を取得。
アウグスティヌスの著作を読み始め、特にアウグスティヌスの反ペラギウス主義的なテキストが、彼のパウロ神学とローマ書理解を助ける「体系的・神学的な助け」となっています。


宗教改革の転換点と「塔の体験」


ルターの宗教改革における転換点は、彼が神の義が(sola gratia)恵みのみによる純粋な贈り物であり、人間には(sola fide)信仰によってのみ与えられると初めて認識した時期にあります。



ヴィッテンベルクのアウグスティヌス修道院の南塔にある書斎で、突然の啓示として経験したんだ。
これは「塔の体験」として、1518年の春から秋にかけて起こったとされています。
ローマ書1章17節の「義人は信仰によって生きる」という聖句を黙想する中で、長年探し求めていたもの、すなわち
神の永遠の義が、人間のいかなる努力によっても強制できない、イエス・キリストへの信仰によってのみ与えられる純粋な恵みの贈り物である
と突然発見しましたと言われています。



だがこれは、(中世)神学会全体を揺るがしてしまうものだ。さて、どうしたものか。
改革への道のりー95ヶ条の提題と論争


ルターのこの新しい概念は、当時の教会の慣行、特に贖宥状(免罪符)の販売に対する彼の批判へと繋がるものです。
贖宥状は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の再建費用やマインツ大司教アルブレヒトの借金返済のために発行されており、贖宥状を購入することで煉獄での罪の償いの期間が免除されると宣伝されていました。
- 1517年10月31日
-
宗教改革の出発点ともなる95ヶ条の提題をマインツ大司教アルブレヒトに送付。
マルティン・ルター学術的な議論を促すことを目的に、贖宥状そのものよりも、それが表す間違った悔い改めの精神に抗議するために送ったんだよ。
しかしこれはルターが意図しながった広がりを見せ、反響を呼びました。
- 1518年
-
ルターはハイデルベルク討論で自身の神学を提示。
後に改革者となる若い進学者たちの支持を得ました。
ローマ教皇庁は7月にルターに対する異端審問を開始。60日以内にローマに出頭するように命じますが、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の働きかけにより、ローマではなくアウグスブルク帝国議会で審問されることになります。
- 1518年10月
-
ルターはトーマス・デ・ヴィオ・カエタヌス枢機卿と面会。
枢機卿はルターに撤回を求めますが、ルターは信仰の確実性の必要性とローマ書1章17節に関する自身の理解を説明した書面を提出し、撤回を拒否しました。
- 1519年7月
-
ライプツィヒ討論が行われます。
マルティン・ルター教皇も公会議も、誤りを犯すことがある。私は間違っていない。
破門とヴォルムス帝国議会、そしてヴァルトブルク城へ
- 1520年6月
-
ルターは教皇勅書「デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム」によって正式に破門されました。
マルティン・ルター良心に反することは安全でも健全でもない。神よ、私を助けたまえ、アーメン!
- 1521年
-
ヴォルムス勅令が発布され、ルターは帝国追放になりました。
ヴォルムス勅令以下のことが禁止されました。
- ルターを支援したり匿ったりすること
- ルターの著作を読んだり、印刷すること
- 拘束して皇帝に引き渡すこと
しかしザクセン選帝侯フリードリヒ賢公はヴォルムスからの帰路、無双した騎士による「偽装された捕縛」によりルターをヴァルトブルク城で保護したのは、有名な話です。
あわせて読みたいヴァルトブルク城の真実ー伝説・改革・ドイツ統一を見届けた古城の物語 ドイツ・テューリンゲン州のアイゼナハの山の上に静かに佇むヴァルトブルク城。 ヴァルトブルク城の歴史は、ドイツ史そのものです。 11世紀の設立から、ルードヴィング… マルティン・ルターユンカー・イェルク(Junker Jörg)と名乗って、騎士の格好をして潜んでいたよ。
ルターはヴァルトブルク城で、執筆活動に勤しみました。
ここでの執筆で特筆すべきものはなんといってもやはり新約聖書のドイツ語翻訳。
わずか11週間でギリシア語原典からドイツ語への翻訳を完成させ、後のルター聖書の基礎となっています。
この聖書は、標準ドイツ語の発展に決定的な影響を与えています。
城山塔子ドイツ語を学ぶ外国人にとってザクセン方言が聞き取りやすいのは、ザクセン方言が標準ドイツ語の基礎になっているからなんだよね。


宗教改革の定着と神学の主要概念


ルターがヴィッテンベルクに戻った後、彼は教会改革の定着に尽力します。
- 1526年
-
ドイツ語ミサを導入。
マルティン・ルタードイツ人にはやはり、ラテン語ミサよりもドイツ語ミサが一番よ。一般の人々にも、神の教えを理解させやすい。
- 1529年
-
マールブルク宗教対話が行われました。
ルターとウルリヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)の間の聖餐論争を解決するためにヘッセン方伯フィリップが開催したものです。
しかし完全な和解には至りませんでした。
ルターの神学概念
ルターの神学は、以下4つの「のみ」という原則により、体系的にまとめられています。
- キリストのみ
- 真の人間であり真の神であるイエス・キリストのみが、十字架上での身代わりの献身によって、信じる者の義認と聖化を一度限りで成就する。
- 恵みのみ
- 人間は、いかなる自己の努力なしに、神の恵みによってのみ義とされる。
- 信仰のみ
- イエス・キリストを受け入れる信仰によってのみ、人間の救いが成就する。
- 聖書のみ
- 聖書のみが、神への信仰と神に関する知識の源泉であり、したがって、すべてのキリスト教徒の言動を測る批判的な基準となる。
人間が同時に義人であり罪人であるという「simul iustus et peccator」の概念も提唱。
これは人間は罪の状態にありながらも、神の恵みによって常に新たに神との関係を築くことができるというものです。
さらに、ルターは「二つの王国論」を提唱し、世俗的な統治(civitas terrena)と精神的な統治(civitas dei)を厳密に区別しました
音楽と言語への影響
ルターは音楽と神学が人間の魂の救いにとって最も重要であると考えていました。



ルター自身も、優れた歌手であり、リュート奏者、讃美歌の作曲者でもあったよ。



才能がマルチすぎる!
讃美歌にもドイツ語を積極的に取り入れ、ルターが作詞した36の歌が伝えられています。そして少なくとも20曲を作曲したと言われています。


ルターの晩年と遺産





世界の終末は近い
晩年オルターはヨハネ黙示録に強い関心を持つようになり、以下のような考えにとらわれるようになりました。
- 教皇は反キリストである
- トルコと教皇制がキリスト教世界にとって最後の脅威である
晩年の著作は、反ユダヤ主義的だと、後世批判されるようになりました。
- 1546年1月
-
マンスフェルト伯爵家の相続争いを解決するために、アイスレーベンに向かいます。
- 1546年2月18日
-
アイスレーベンで亡くなります。ルターの遺体はヴィッテンベルク城の教会に埋葬されました。
ルターの宗教改革は、ドイツ語や音楽文化、そしてヨーロッパ全体の近代化にも大きな影響を与え、今もなお私たちに問いかけています。