ルール地方北部、エッセン(Essen)の北,約30kmのところにあるバロック様式の水城で,ホーエマルク自然公園(Naturpark Hohe Mark )内にあります。
レムベッカー・ヴィーゼン川(Lembecker Wiesen)から水を引き込み,長方形の池となって城の周りを取り囲んでいます。
城のある一体は湿地帯であり,水城を建てるには好条件の場所となっています。
目次
レンベック城の見どころ
東西を軸に左右対称の水城となっています。城へは橋を渡っていきます。
2翼からなるフォアブルクは,シンプルなファサードがあり,中央は正方形の砂岩でできた2階建ての城門があるだけです。
3階建ての本館はフォアブルクから石造りのアーチ橋を渡って行くことができます。
庭園
19世紀にイギリス庭園として生まれ変わりました。さまざまなバラの品種が植えられており,夏が見頃です。
博物館
シュロス博物館と郷土博物館から成ります。
シュロス博物館は,当主が300年以上に渡って集めた武器や家具,絵画といったコレクションが展示されています。
レンベック城への行き方
アウトバーン31号線(A31)がレンベック城の近くを通っているので,車で行くのが便利です。レンベックICで降ります。
整備された平坦な道があり,豊かな森に囲まれていることから,サイクリングコースとしても人気です。
レンベック城の歴史年表
- 1177年
- 騎士アドルフ・フォン・レンベック(Adolf von Lembeck)の名が,ミュンスター教区のミニステリアーレとして文書に初めて登場します。
- 14世紀
- 一族の居城としてモットが築かれていたことが,文献より明らかになっています。
- 1526年
- レンベック家の男系が途絶えます。娘がベルンハルト一世・フォン・ヴェスターホルト(Bernhard I. von Westerholt)と結婚していたことから,所有権はヴェスターホルト家に移ります。ベルンハルト一世は,フォン・ヴェスターホルト・ツウ・レンベック(von Westerholt zu Lembeck)家を設立し,認められます。
- 1576年
- 八十年戦争に巻き込まれます。レンベックの領主は,領地を守ることに最善を尽くしました。周辺の貴族領主とともに,ミュンスター修道院がスペイン軍に占拠されてしまうことを阻止しました。争うだけでなく,交渉術も行使し,修道院を守りました。
- 1631年
- 八十年戦争により,連ベック領主は多額の負債を抱えることになり,親戚のベルンハルト・フォン・ヴェスターホルト=ハックフルト・ツウ・エンティンゲ(Bernhard von Westerholt-Hackfurt zu Entinge)に城を売却せざるを得なくなりました。
- 1633年
- 三十年戦争に巻き込まれます。ベルンハルトはカトリック連盟側として戦います。ヘッセン=カッセル方伯軍に攻められ,ペーター・メランダー・フォン・ホルザッペル将軍(General Peter Melander von Holzappel)が城を占拠し,本拠地とします。ベルンハルトは亡命先で亡くなりました。
- 1641年
- ベルンハルトの息子が一族のために城を取り戻します。
- 1670年から1692年
- 城が大幅に増築・改築され,ミュンスターランド最大の水城の一つになりました。建築家は誰だったのかは不明です。
- 1702年
- 男系が途絶えます。婚姻関係から,ウォルベッカー・ドロシュテン・フェルディナンド・ディートリッヒ・ツウ・ヴェスターヴィンケル(Wolbecker Drosten Ferdinand Dietrich Freiherr von Merveldt zu Westerwinkel)のものとなります。現在のこの城の所有者は,この家系です。
- 1726年
- 帝国伯爵に昇格します。
- 1831年から1833年
- 礼拝塔(Kapellenturm)が荒廃していることが判明し,徹底的に修復されました。完全に取り壊し,建て替えられた可能性があります。
- 1877年
- フォアブルクの北翼が消失し,再建されることはありませんでした。「ロシア人の不注意により,フォアブルクの塔が1つ消失した」という記録が残っています。
- 第二次世界大戦
- レンベック城は占領軍による爆撃や破壊行為により,大被害を受けます。戦後,復興および修復作業が始まります。
- 1965年
- 本館の上層階にホテル,吹き抜けの地下室にレストランがオープンしました。ホテルは2016年末まで営業していました。
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