中世ヨーロッパにおいて、フェーデ(Fehde)は決闘の一種ですが、単なる決闘ではありませんでした。
中世ヨーロッパ、特にドイツで見られたこの慣習は単なる復習や死闘とは一線を画す、独特なルールと社会的な意味合いを持った法制度の一部でした。

フェーデは「確執」と訳されることもありますが、ここではあえて「フェーデ」のまま使用します。
本記事では、現代を生きる我々には想像しにくいフェーデについて、その独特な性質について、わかりやすく解説し、掘り下げていきます。
フェーデとはなにか?


中世前期、フェーデは自由民である被害者、またはその一族が加害者に対して暴力を持って復習する訴訟法の一種でした。



仇討みたいなものなのかな?
「仇討ち」に似ている点もありますが、その根底には当時の社会システムが色濃く反映されています。
現代のように警察や裁判所といった公的な司法制度が十分に機能していなかった時代、人々は自分たちの手で己の正義を実現する必要がありました。
『ニーベルンゲンの詩』のようなミンネザング(中世ドイツの抒情詩)でも、フェーデは血の報復(Blutfehde)として重要な役割を果たしています。
これは、血で血を洗う争いが合法的に行われていたことを示しています。
中世では「権利は自ら守るもの」という価値観が支配的で、それを怠れば権利を失うという恐れが常にありました。
フェーデは、まさに自分の権利を守るための戦いだったのです。



土地持ちの貴族に認められた、いわば「小さな戦争」と考えると、わかりやすいかもしれません
「小さな戦争」とはいえ、時に大規模な武力衝突に発展し、地域に甚大な被害をもたらすこともありました。
エルツ城では、周辺の帝国騎士たちが同盟結び、選帝侯と争ったエルツ・フェーデがありました。


法的な自助救済としてのフェーデ
フェーデは、第三者機関である司法機関を介することなく行われる行為でしたが、当時の社会においては不当な自助救済ではなく、認められた行為でした。
まだ証拠書類などが十分に整備されていなかった時代、複雑な法律関係において正当な判断を下し、その判決を執行する裁判所の機能は非常に限定的でした。



当時の裁判の判決には、ほとんど強制力がなかったんだよ。
裁判所は存在しても強制力がなく、現代のような警察組織も存在しない。
そんな時代において、フェーデは自分の権利を守るための法的な救済措置として機能していました。
つまり、フェーデとは、裁判所に頼らず、加害者と被害者の間で直接紛争を解決することを規制した法制度と理解できます。
フェーデを行うかどうかは、当事者本人とその一族の判断に委ねられていました。
フェーデの具体的な進め方
フェーデは通常、宣戦布告(Fehdebrief)が行われた後、決められた場所や建物で行われました。自分の主張を通すためには、城の建設が不可欠でした。



野戦よりも攻城戦がほとんどだったからね。
- 正当な理由の存在:名誉の侵害、財産の侵害、身体への危害など
- 宣戦布告:相手に対する公式な挑戦状の送付
- 猶予期間:宣戦布告後、実際の戦闘開始まで一定期間を置く
- 第三者への通知:周辺の領主や共同体への告知
フェーデの本来の目的は、相手側に犠牲者を出すことではなく、相手に自分の法的主張を認識させ、最終的に和解に持ち込むこと。
しかし、その手段は現代の感覚からすると非常に暴力的です。
略奪、農作物の焼却、家屋の破壊、果樹の伐採、家畜の殺戮、強盗、城の占拠や征服といった行為は、フェーデの過程において合法とされています。
一般的に、フェーデは武器を持つ能力のある者であれば農民でも行うことが認められていましたが、12世紀の初めには騎士社会と都市のみに適用されるようになりました。
ただし、その場合でも両親が騎士家系である必要がありました。
フェーデを避ける方法、賠償金
フェーデは、一度始まると「仇討ちが仇討ちを引き起こす」という連鎖を生み出し、相手を根絶するまで争いが繰り広げられる危険性をはらんでいました。



日本の場合、報復に対して報復する重敵討は禁止していたよ。
この無制限な争いを避けるため、負傷者側に対して賠償金を支払うことで和平を結ぶ手段がとられるようになりました。
この賠償金の額は、負傷者側が満足する額を用意しなければならないとされていました。
つまり、和平は金で買うものだったのです。
フェーデの戦い方
フェーデの戦い方は、ある程度の定型がありました。
まず敵軍が成立し、その後、選ばれた騎士たちによる予備戦が行われ、最後に総力戦が繰り広げられました。
フェーデにおいては、騎士道精神と公正さが優先され、誰もが栄光を追い求めることが可能な場所であると認識されていました。
盗賊騎士の存在
商人たちの旅路を襲ったり、商品を取り上げたりする行為は、しばしばフェーデへと発展しました。
騎士たちは、敵対する都市民の財産を戦利品とみなしていました。
困窮と貧困からくる盗賊騎士は実際にはほとんどおらず、裕福な領主がフェーデを行っているケースも少なくありませんでした。



教会領主でさえ、強盗や放火、殺人などのフェーデを繰り広げていたよ



フェーデを禁止する立場じゃないのかよ!
フェーデの歴史


では、この独特な法制度であるフェーデが、一体どのように生まれ、時代とともに変化していったのでしょうか。そのルーツは古代ゲルマニアに遡ります。
古代ゲルマニアにおける起源
フェーデの起源はゲルマニア時代にまで遡ることができます。
まだ「国家」という明確な概念が存在せず、部族や氏族という単位で社会が組織運営されていました。
家長や族長は一族の生活を保護する義務を負い、その構成員たちは一族の問題や緊急事態に長を補佐する義務を負いました。
裏切り者は死刑に処され、長は司法官の役割も担っていました。
若い男性は長を補佐して戦い、戦利品が分け与えられます。
この時代にはまだ貴族や確立された司法制度は存在しませんでしたが、フェーデの萌芽を見ることができます。
中世における発展と制限
中世に入ると、フェーデは大規模な戦争へと発展し、地域に壊滅的な損傷を与える事態が増加しました。
身代金や略奪目的でフェーデが広く行われるようになり、社会問題となっていきます。
この状況を食い止めようと、10世紀には教会が「神の平和運動(Gottesfrieden)」を展開し、フェーデの制限を試みました。
特に、木曜日から日曜日の夜までは休戦するように求め、これを成功させます。
カロリング朝時代の国王たちも、フェーデを制限しようと苦心していたことが史料から分かっています。
1235年には、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世(Friedrich II.)がマインツのラント平和令(Mainzer Landfriede)を公布し、フェーデを部分的に制限しました。
これ以降、フェーデを行うためには特定の手続きが必要となりました。
フェーデを行う際には、その都度、決まった形式の宣戦布告(Fehdebrief)を行うことが騎士の守るべき道徳となりました。
宣戦布告では、フェーデを行う場所と日時を公開しなければなりません。
この宣戦布告は、フェーデには関係のない農民、僧侶、商人、婦人といった非戦闘員を保護するために存在しました。



無関係の人たちをフェーデの前に避難させるためなのね。
当時の集落の中で、礼拝所は通常、唯一の石造りの建物であり、防御性に優れていました。
戦争が民衆の生活を脅かすことから、有事の際に干し草や藁、作物の種子、家具などを礼拝所に保管することを定めた法令も存在しました。
フェーデを行うための手続きが色々面倒になったとはいえ、戦うことが騎士の本分。
彼らは何かとかこつけてフェーデを繰り返し行っていたのが実情でした。
フェーデの終焉
14世紀以降、慣習的な戦法を厳格に守った結果、騎士の軍隊はしばしば大敗を喫するようになります。
1495年、ドイツ国王であり後の皇帝マクシミリアン一世(Kaiser Maximilian I.)が永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)を制定し、訴訟法としてのフェーデは完全に禁止されます。
これにより、紛争は暴力ではなく、法廷で法律に基づいて非暴力的に解決されるべきであるという原則が確立されました。
戦争という形での領主間の争いはその後も続きますが、訴訟法としてのフェーデはそれ以後ほとんど行われなくなりました。



司法が機能するようになったことで、フェーデというシステムは役目を終え、消滅していったんだね。
まとめ
現代の視点から見れば、フェーデは野蛮で危険な慣習に映るかもしれません。
しかし、それは強力な公権力が存在しない社会で、人々が秩序と正義を維持しようとした一つの形でした。
フェーデの歴史は、法の下の平和が確立されるまでの、ヨーロッパ社会の長く複雑な道のりを物語っています。