ドイツ北部最大の四翼のルネッサンスシュロスで,水城です。
ドイツ北部で有名な二人のルネッサンス建築家ヨルグ・ウンカイル(Jörg Unkair)とコルト・テニース(Cord Tönis)により建てられました。 近世初期に円形の稜堡が設けられ、城館と要塞の機能を併せ持つようになりました。
中世時代の部分は1547年の大火により失われてしまっています。
現在も侯爵一家が居住しており,収集された美術品の数々を公開しています。
目次
デトモルト城の見どころ
城は常に内部公開されているものではないようなので,公開日を調べてから行くことをお勧めします。
デトモルト城への行き方
デトモルト城の歴史年表
- およそ紀元頃
- この地への入植が始まります。
- 800年頃
- カール大帝の時代,現在の旧市街地区に最初の領主の住まいがありました。
- 1180年
- 皇帝フリードリッヒ一世(赤髭王)がザクセン・バイエルンのハインリッヒ獅子公(Herzon Heinrich den Löwen von Sachsen und Bayern)との権力闘争があり,その時の城主ベルンハルト2世(Bernhard II.)はハインリッヒ側に付きました。近隣の公爵家の家々が破壊される中,デトモルトは破壊を奇跡的に免れました。
- 1190年頃
- トイトブルクの森(Teutoburger Wald)の北側を所有していました。おそらくパーダーボルン司教(Bischof von Paderborn)の協力があったと考えられています。
- 13世紀頃
- ベルンハルト三世(Bernfard III.)および四世のころ,水城であるデトモルト城が建設されます。遅くとも1260-70年頃までには完成したようです。同時にデトモルトの城下町も建設されました。
- 1366年
- デトモルト城について,文献的にはじめて触れられており,ジモン三世(Simon III.)がこの城に住んでいました。
- 1429年
- ジモンス4世が若くして亡くなると,当時1歳の息子が引き継ぐことになるわけですが,当然統治する能力はありません。
- 1447年
- 後見としてケルン選定司教(Erzbischof von Köln)とクレーヴェ公爵(Herzog von Cleve)が争うことになり,ゾースト・フェーデ(Soester Fehde)が起こり,城と都市が焼失してしまいました。その後,リッペ(Lippe)伯のものになります。
- 1528年
- ジモン五世は,リッペの領主として伯爵の称号を受けます。
- 三十年戦争のシュマールカルディッシュの戦い
- プロテスタントのヘッセン方伯側につきました。そして当然のごとくデトモルトは焼け落ち、破壊されてしまいました。
- 1586年-1613年
- リッペ伯のメイン宮殿として改築されました。
- 30年戦争後
- 文化が花開き,街と城が増築されていきました。レジデンツシュロスとして新しいパラスが建てられ,南に果樹園が,そしてバロック様式の庭園が造園されました。
- 1895年
- リッペの後継者争いが起き,ザクセン王を議長にして和解し,エルンスト・ツア・リッペ・ビースターフェルト(Ernst zur Lippe-Biesterfeld)の摂政政治を行うことになりました。このリッペ・ビースターフェルト家が現在のリッペ家です。
- 第一次世界大戦後
- 多くの貴族がそうであったように,デトモルトもまた行政権が貴族からドイツへと変遷しました。現在,私有部分と国有部分に分けられ,管理されています。