シュトルペン城はドレスデンから約27km東にある山城です。ドイツの天然記念物となっている玄武岩山(Basalberg)の上に立つブルクです。
マイセン辺境伯とエルベ川東岸のスラブ人入植地の境界領域にあり,交易ルートの交差点として重要な場所でした。
この城は選帝侯の愛人であるコーゼル伯爵夫人(Gräfin Cosel )が,人生の半分以上を囚人として過ごした城です。
シュトルペン城の見どころ
2つのフォアブルクと2つの主城と,4つの部分に分けられます。
- 下のフォアブルク:防弾室,深さ3mの地下水槽への入り口,穀物庫
- 上のフォアブルク
- 下の主城:城塞防衛の中核的存在。17世紀の大砲が今も存在。パン屋,鍛冶屋,厩,屠殺場などもある
- 上の主城:住宅用の建物が囲む。深さ82mの井戸がある
七角形の塔
土台部分は四角形ですが,上に向かって六角形になる塔です。
六角形なのに,呼び名はなぜか七角形です。
ヨハニス塔(Johannisturm)
ヨハニス塔はコーゼル伯爵夫人が囚えられていたことから,コーゼル塔とも呼ばれています。円筒形の目立つ塔なので,すぐそれとわかります。塔に登り,城下を眺めてみましょう。ドイツの田舎の田園風景が目の前に広がります。
囚われのコーゼル伯爵夫人は,いつもここからの景色を眺め,何を思っていたのか,想像してみてはいかがでしょうか。
玄武岩
この城は玄武岩の岩山の上に立っています。
シュトルペンの名は「柱形の」「柱形の場所」という意味のスラブ語から派生したという言葉が示すとおり,柱形の黒い岩を見ることができます。
ここの玄武岩山は,ドイツ国の天然記念物となっています。
コーゼル伯爵夫人
アンナ・コンスタンティア・フォン・コーゼル帝国伯爵夫人(Anna Constantia Reichsgräfin von Cosel)は選帝侯アウグスト(August)の愛人でした。
コーゼル伯爵夫人は1716年のクリスマスに囚えられ,シュトルペン城に収監されました。
最初は武器館の上の高級な部屋で不自由な囚人生活を送っていました。彼女は国家機密情報を握っていたために,非常に厳しく監視されていました。
1743年の火災により,最後の20年は住居用に改装されたヨハニス塔で過ごすことになりました。その頃はある程度の自由が認められるようになり,中庭を散策することが許されました。
85歳でなくなるまでの49年間をここで過ごしました。彼女はここで50年近く,何を眺めて,何を思って過ごしていたのでしょうか。
死後,彼女は城の礼拝堂に埋葬されました。
アウグストとの間に一体何があったのか,どんな愛憎劇があったか,深掘りしたくなってしまいます。
Youtubeにはちょっとした再現ドラマの公式動画が公開されています。
シュトルペン城へのアクセス
ドレスデンからバスR261から行くのがわかりやすいかと思います。
シュトルペン城の歴史年表
- 1100年頃
- 重要な貿易の交易ルートが交差する地域であり,戦略的に重要な場所であることが認識されていました。不確かなではありますが,このころ税の徴収が強化されたという情報があります。
- 1218年
- 封建領主モイコ・ド・シュトルペン(Moyko de Stulpen)からブルーノ二世・フォン・ポルシュテンドルフ二世(Bruno II. von Porstendorf)司教はシュトルペンの領地を取り戻しました。マイセン司教区の一部となり,司教の主要な居城の一つとなります。
- 1222年
- シュトルペン城の最初を文書で見つけることができます。
- 1320年
- シュトルペンの役所が設立され,行政の中心地となります。
- フス戦争
- 1429年にフス派に包囲されます。包囲は8週間続き,最終的に防衛に失敗してしまいます。
- 15~16世紀
- 城の北側に集落が形成され,すぐに都市に発展しました。領主司教たちはシュトルペンを増築していきます。穀物庫は36mの長さがあり,年貢が納められました。
- 選帝侯アウグストの時代
- ザクセン選帝侯アウグスト一世(強王)はシュトルペンの重要性を認識しており,重要な城,街,役所などを重要性の低いものと矯正定期に交換していきます。この交換により,シュトルペンの司教時代は終わり,選帝侯時代となります。
選帝侯はシュトルペン城を買収後,広範囲に改築工事を行い,ルネッサンス様式のシュロスへと姿を変えます。部屋は華美な少食が施されます。
玄武岩山に建つ城は常に水問題に悩まされており,当初は貯水槽に雨水を貯めて使用していました。しかし水質が悪く,アウグストは井戸を掘ることを命じます。
玄武岩は非常に硬いため,木材を燃やし,水をかけて急冷させ,応力亀裂を発生させながら掘り進む必要がありました。水層に達するまで30年の歳月を費やしました。
余剰水は水道を用いて都市に配水され,都市の水問題も解決しました。
- 三十年戦争
- 1632年にクロアチア軍からの攻撃に対し,市民によって防衛に成功するも,火災により消失します。すぐに再建されますが,今度はスウェーデン軍に包囲され,撃退に成功します。
- 1773年
- 城は倒壊の恐れがあり,安全のために一部が取り壊されます。
- 1806年
- ザクセンはプロイセン側としてナポレオン軍と戦い,敗北します。フランス軍の支配下で城は再建,増築されて強化されます。しかしナポレオン軍がロシア行軍に失敗し,撤退する際,城は爆破・破壊されてしまいます。
- 1859年
- ザクセン国王は復旧を命じます。この頃にはもう軍事的な意義はなくなってしまっていましたが,ロマン主義に基づく観光的意義があると考えてのことです。
- 1877年
- 博物館として営業を開始します。現在も観光促進のための整備が進められており,訪れやすくなっています。