このページはドイツのザルツブルク城を紹介するものです。オーストリアのザルツブルクでも,スロバキアにあるザルツブルク城でもありません。
ヴュルツブルクの北,ウンターフランケン地方のバート・ノイシュタット・アン・デア・ザーレ(Bad Neustadt an der Saale)にある山城で,山の尾根に建てられた城です。山側には空堀を掘って分断することで防御しています。巨大なブルク廃墟です。
共同相続ブルク(Ganerbenburg)であり,城の敷地の一部に,現在の城主が居住しています。住居として使用されているケルンブルクには入れませんが,フォアブルクはアクセス可能です。
目次
ザルツブルク城の見どころ
周囲の森は生い茂っており,良く言えば自然豊かな森の奥にあるブルク廃墟です。
450mある環状城壁内に7つの小さな城が存在しており,ここが共同相続ブルクであることがわかります。それぞれの小さな城に,それぞれ異なる家族が住んでいました。
城壁に使用されている石材は,表面が出っ張っており,中世ドイツに特徴的な石の削り方dす。
中庭にある教会は新しく,ロマン主義の頃に建てられた見る価値のある教会です。
フォアブルクにピザ屋があります。近くにある病院を訪れた見舞客や患者さんたちもよく利用するピザ屋なのだそうです。
ザルツブルク城への行き方
A73号をミュンナーシュタット(Münnerstadt)で降り,バート・ノイシュタット・アン・デア・ザーレ方面へ向かいます。『レーン病院(Rhön-Kliniken)』の標識に従って進みます。
ブルクの前,またはブルクレストラン(ピザ屋)前のブルクホフに車を停めます。
ザルツブルク城の歴史年表
- 1000年
- カロリング朝時代,ザルツガウ地域は非常に重要な地域であり,皇帝オットー三世からヴュルツブルク司教(Bistum Würzburg)に寄贈されました。ハンガリー人襲撃と難民救済のために,要塞化されました。石灰岩に木製の防御柵を打った跡が見つかっています。
- 1170年頃
- 共同相続ブルクとして徐々に拡張建設されていきます。中央ヨーロッパの行政の中心地としての機能を持ちます。市長や城代が置かれ,さらに5人のミニステリアーレが配置されました。城の拡張工事は1250年頃に終了します。
- 1580年頃
- 農民戦争による被害は軽微ではありましたが,全体的な改築が必要となりました。
- 1722年
- ブルクの衰退が始まり,環状城壁の内側に村ができます。古い礼拝堂が取り壊されました。3家系の共同相続人が城に残り,他の2つの部分は廃墟になりました。
- 1723年
- ユダヤ人家族のためにシナゴークが建設されました。
- 19世紀初め
- 羊その他の家畜たちも城内で飼われていましたが,ロマン主義からザルツブルク城を魅力あるものにしようつ擦る動きが起こりました。
- 1841年
- 中世の礼拝堂の痕跡が中庭に残るのみでしたが,ヴュルツブルク司教の再建に動き出します。バイエルン国王ルードヴィッヒ一世(König Ludwig I. von Bayern)はゴシック様式を好みましたが,新ロマネスク様式に設計し直されました。
- 1848年
- 新しい城の礼拝堂が完成します。
- 19,20世紀
- 男系断絶や婚姻関係等から所有者はいろいろと変わり,現在はグッテンベルク(Guttenberg)男爵家の所有となっています。