ロマネスク街道,アンハルトの王冠(Krone Anhalt)と表現されることもあるルネッサンス様式のシュロスです。
ザーレ川(Saale)東岸の砂岩の山の上に立つ城で,川を渡るための浅瀬のある場所として古くから栄えた場所です。
城の歴史は古く,オットー朝時代の避難ブルク(Fliehenburg)に遡ることができます。
長きに渡り,侯爵,後の公爵アンハルト・ベルンブルク(Anhalt-Bernburg)の居城でした。現在はザクセン・アンハルト文化財団が所有および管理しています。
ベルンブルク城の見どころ
城から眺めるザーレ川の流れは一望の価値があります。ザーレ渓谷やハルツ山地からブロッケンまでの眺めが一望できます。
城も大きな破壊を受けることなく,保存状態の良いレジデンツシュロスです。
保存状態は良いですが,城の改修工事が頻繁に行われているという欠点があります。城を維持するためには改修工事はその都度行っていかなければならないので仕方のないことです。修復作業が進むに従い,城は美しくなっていっています。
この城のツヴィンガー(外城壁と内城壁の間の空間)では,なぜかクマが飼われており,子どもたちのアイドルになっています。
博物館
ここの博物館は130年の歴史があります。
鉱物,自然史,宗教史,現代美術はもちろんのこと,ベルンブルクの考古学的発掘品など,さまざまなテーマで常設展示,および特別展示されています。
拷問展では,中世の暗部を知ることができ,ヨハン・ゲオルグ館ではアンハルト鉱物コレクションを見ることができます。
オイレンシュピーゲル塔(Eulenspiegelturm)
高さ44m,壁の厚さが3m,円筒形の中世の避難塔です。この塔が,ロマネスク街道のポイントとなります。
オイレンシュピーゲルとは,実在が疑われて入るものの,ある物語の主人公で,道化師のような姿でよく表現される人物です。彼は敵が来たとき,塔の上から彼が「敵だ!」と叫ぶと,差し迫った危険が去っていったとされています。
16世紀に,この塔は彼の名を冠し,オイレンシュピーゲル塔と呼ばれるようになりました。
博物館がこの塔を管理しており,見学者はこの塔に登ることができます。塔では,道化師姿のオイレンシュピーゲルの動く人形が出迎えてくれます。
ベルンブルク城へのアクセス
アウトバーンA14をハレ(Halle)からマグデブルク(Magdeburg)方面に向かい,10番出口で降ります。
無料駐車場がシュロスホフ(Schlosshof)にあります。
ベルンブルク城の歴史年表
- 961年6月29日
- 皇帝オットー一世(Otto I.)の贈与証書に「Brandanburg」としてザクセン地域と,城壁と堀のある避難ブルクが記載されています。この時代に大規模な城塞建築があったことが,発掘調査により証明されています。
- 1138年
- ヴェルフェン(Welfen)家とホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)家との紛争の際,焼け落ちました。
- 12世紀後半
- ザクセン公爵ベルンハルト三世(Bernhart III.)がロマネスク様式の城として再建します。この時代にオイレンシュピーゲル塔が建てられます。聖パンクラティウス礼拝堂もこの時代のものです。
- 1211年と1212年の変わり目
- ベルンハルト三世が死去し,葬儀が行われました。はじめての公の儀式となります。相続儀式とアスカニア家の遺産分割の舞台となりました。
- 1498年
- アンハルト・ケテン(Anhalt-Köthen)侯爵家がベルンブルクの領主となります。居城および行政の中心地として,城を使用します。城の西の部分にラングハウス(Langhaus)を建設します。しかし軍事施設としての城の拡張は,これ以降行われていません。
- 16世紀
- ヴォルフガング・フォン・アンハルト侯爵(Fürst Wolfgang von Anhalt)がルネッサンスシュロスに改築します。シュマルカンド同盟の共同創設者でしたが,皇帝カール5世に敗れ,この地を離れざるを得なくなります。反面,デッサウ家の人々がこの領土を取り戻していきます。
- 16世紀後半
- 居城としての改築が行われますが,デッサウのレジデンツシュロスの大規模な建築工事が行われたため,ベルンブルク城の重要性は低くなり,侯爵の別宅となってしまいます。
- 1860年
- かつて城の堀だった場所に,ロシアヒグマのための穴が掘られます。現在,2頭のヒグマが城で飼われています。
- 1863年
- ベルンブルク家が断絶し,アンハルト・デッサウとの合併が行われます。
- 現在
- 博物館として使用されています。