モーリッツブルク城(ハレ)Schloss Moritzburg (Halle)の歴史

ザクセン州

ハレにあるモーリッツブルクです。モーリッツブルクという名の城は,私の知る範囲では他に2つあります。ここではハレにあるモーリッツブルクを紹介します。

モリッツブルク城(ハレ)

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モーリッツブルク城へのアクセス

モーリッツブルク城の歴史年表

961年
オットー1世から「ciuitas Giuicansten」を製塩所付で大司教区マグデブルクのモーリッツ修道院に完全譲渡されました。
1280年

都市ハレはハンザ同盟に加わります。

1478年
マグデブルクの大司教たちとの闘争のすえ,都市ハレの法的な独立は終わります。最初の建築場所であるマルチンスベルク(今日のシュタットゴッテスアーカー)とペテルスベルク(今日のオペルンハウス)は地盤が悪く,水の乏しかったため,中世の環状城壁の北西,都市境界内に建設されました。これは1310年に市民が勝ち取ったものです。大司教の都市内ブルク建築権の放棄に違反しています。

1484年の春
建設が始まり,1484年5月25日に司教エルンストが礎石を置きました。
1503年5月
司教はまだ未完成のモーリッツブルクに移りました。司教はほとんどをそこで過ごしました。
1504年4月19日
「arx Sancti Mauritii」というブルクの守護聖人の名前で文献に見つかります。

 カルディナル・アルプレヒト5世・フォン・ブランデンブルクが断続的に30年間滞在します。彼は芸術や科学を愛するルネッサンス貴族でマティアス・グリューネヴァルト,アルプレヒト・デューラーのような有名な芸術家たちが発注を受けて仕事をしています。ハレはドイツの初期ルネッサンスの重要な中心地として発展していきました。

 大司教区の城伯の役職をめぐって,カルディナル・アルプレヒトとザクセンの聖職者ヨハン・フリードリッヒの対立は激しさを増し,新しい防御理論を基に外側の防御設備が変更されました。

1541年
カルディナルがマインツへ退却した後は,自由を求める都市に対抗する領主の権力を示す手段として残りました。「強固なシュロス」としてブランデンブルク家出身の大司教の安全な滞在場所となりました。
1556年8月11日
ジギスムント・フォン・ブランデンブルクは最初の領主としてモーリッツブルク礼拝堂で新教の説法を行いました。

 最後の管理官アウグスト・フォン・ザクセンの頃,領主の滞在の中心地は他へ移り,ブルクは荒れ果てていきます。

三十年戦争
モーリッツブルクはスウェーデンの攻撃を受け,廃墟になりました。
1822年
プロイセンの建築官に記念碑として記帳され,後の国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世の発案により,再建計画を提案ました。
1888年
グスターフ・ヴォン・ディーストがブルク再建計画を発起し,1894年以降,大学と都市ハレが断続的に実行していきました。

 現在はザクセン・アンハルト州の Stiftung Schloesser, Burgen und Gaerten の管理下にあり,1996年から更なる修繕,修復作業が行われております。

モーリッツブルク城の営業案内

開館時間
木曜日~火曜日および祝日
10:00~18:00

休館日
 水曜日,12月24日,31日
所在地
Moritzburg Halle Landeskunstmuseum Sachsen-Anhalt Friedemann-Bach-Platz 5 06108 Halle(Saale)
Tel. 0345-212590 Fax. 0345-2029990
所有者
Stiftung Schloesser, Burgen und Gaerten des Landes Sachsen-Anhalt
公式サイト
http://www.stiftung-moritzburg.de/