日本の武士道に対し,西洋の騎士道はよく対比される騎士道は,日本の武士と同じく中世にその起源があります。
中世の城とは切っても切れない関係にあるのが,中世の騎士です。
ではその騎士はいつ頃どのようにして始まったのでしょうか。
イスラム軍に対抗するために
イスラム軍のヨーロッパ侵攻
8世紀ごろ,イスラム教徒たちが近東地域を平定し,北アフリカを征服すると,今度は西ヨーロッパへと勢力を拡大してきました。
最初の標的はスペインです。
711年4月,イスラム軍がジブラルタルの南海岸に上陸。防衛のために駆けつけたキリスト教軍を制圧し,内陸へと侵入。トレドの王都を降伏させました。
そして713年の夏には,ピレネー山脈へと到達しました。
イスラム軍はピレネー山脈へと到達すると休戦し,スペインをすぐさまイスラム国へと変えていきました。スペインではイスラム法やイスラムの慣習に支配された生活となりました。
スペイン征服戦争は普通の戦争ではなく、「ジハード」と呼ばれる宗教戦争です。イスラム教を戦禍と剣で広めることを目的としています。
カール・マルテルの考案
フランク王国の宰相カール・マルテル(Karl Martell:714-741)は,イスラム軍がフランク王国に攻め込んでくるのは時間の問題だと考え,応戦する準備をはじめました。
イスラム兵士は、雷のように速い馬を操り、矢の雨を降らせてきます。敵の攻撃に戸惑い、こちらの秩序が乱れたスキを狙って、側面から複数同時攻撃を仕掛けてきます。
こちらが優勢になると、奴らは急に撤退し始め、体勢を整えて別の方面から突然襲ってきます。
カール・マルテルはイスラム軍の攻撃戦術を聞き,それに対抗するためにはどうすれば良いのかと考えます。
イスラム軍の機動力に対し,フランク軍の足軽舞台ではとても太刀打ちできません。
騎馬兵には騎馬兵を!
ということで,後の騎士の原型となる「フランクの重装騎兵」と呼ばれる舞台を誕生させました。
トゥール・ポアチエの戦い
720年頃,カール・マルテルが予見したとおり,イスラム軍はフランク王国に攻め入ってきました。
街や村を破壊し,教会や修道院に人放ち,略奪や殺害を行い,多くの人々を奴隷にしていきました。
732年10月,ついにフランク軍と衝突します。
この戦いでフランク軍の装甲騎兵がどのような役割を担っていたのかは,分かっていません。しかし,装甲騎兵が決定的な役割を果たしたことは確かです。
フランク軍は徐々にイスラム軍をピレネー山脈まで押し戻しました。キリスト教徒によるスペインの再征服「レコンキスタ」の前提条件となります。
フランクの重装騎兵の装備
フランク王国時代の重装騎兵は,後の騎士に比べるとかなり軽装です。
しかし「重装」騎兵の名の通り,胴体などを守る装甲があります。
鎧は,鉄板を硬い革紐で結びつけたスケールアーマーと呼ばれるものです。
足は革のゲートルを縛って保護しています。
この頃の盾は重い金属製ではなく,木製,または革製の丸い盾でした。
槍の柄も木製です。
重装騎兵は槍で敵を攻撃します。騎士は槍を脇の下に挟んで突進するイメージがありますが,そうではなく,頭の上に高く上げて振り回していました。
フランク軍は槍の他に,真っ直ぐな長剣も得意な武器でした。
馬具の発達
また,馬に乗って戦うためには鞍も重要です。フランク製の鞍は,当時,世界的にも優れていたもののようです。
鐙も重要な馬具です。槍で狙いを定めたり,剣で攻撃したりするときに,騎手が踏ん張るためにも鐙は重要です。
騎馬術の発展には革新的な技術でした。
武具の値段
カール大帝の時代に書かれた文書に,重装騎兵の装備を整えるために必要な費用が残されています。
- 兜:牛6頭
- スケールメール:牛12頭
- 剣:牛7頭
- すね当て一対:牛6頭
- 木製の盾と槍:牛3頭
- 軍馬:12頭
合計,牛45頭分となります。当時の村の家畜と同じぐらいの値段だったと考えられています。
これに,鞍や鐙,旅馬,牛車,日用品を運ぶ馬車,従者,食料が加わります。
本当はもっと重装騎兵を増やしたかったようですが,財政上それはひじょうに難しいことでした。
重装騎兵の調達法
重装騎兵を準備するためにはひじょうに費用がかかりました。
そこで登場したのが,封建制度です。
封建領主は家臣に領土の一部を与え,そこから上がってくる収入で武具を揃えました。その見返りとして,家臣は主君に従者として仕えることを約束します。
家臣は領主から領地を与えられる代わりに,有事には武装して駆けつける義務がありました。
イスラム軍以外との戦い
イスラム軍との戦いで,フランク王国の重装騎兵が大活躍したことで,これ以外の戦いにも重装備の騎兵を用いるようになりました。
この勝利は,自信となりました。
バイキングの侵攻
イスラム軍との戦いが終わった9世紀,今度は北からバイキングが攻めてきました。
バイキングは冒険心と戦利品に駆り立てられ,土地と自由を求めて,彼らは竜船に乗ってイングランドとアイルランドの海岸を荒らしまわりました。
そして,当時混乱期に入っていたフランク帝国は侵略しやすい国だと見られ,襲い始めました。
バイキングたちは,大河に沿って内陸に侵攻し,ある者は沿岸諸島に陣営を築き,略奪した馬に乗り,容赦なくフランク王国を蹂躙し,苦しめました。
そんなバイキングたちに負けず,フランク王国が生き延びることができたのは,フランクの重装騎兵たちの機動力と戦闘力のおかげです。常軌を逸した配置と行動で敵を驚かせ,壊滅させていきました。
マジャル人の侵攻
10世紀初頭には,バイキングの侵攻は沈静化しました。
しかし,こんどは南東部からマジャル人が侵攻してきました。
彼らはドナウ川流域の新天地から,まずはイタリア北部を,次にドイツ南部に進出してきました。黒髪の騎兵たちが高速馬乗り,彼らが通った後には,殺戮と破壊の跡がありました。
北海沿岸にも現れました。フリースランド,オランダ,フランドルが襲われました。
最終的には3000キロ以上もの距離を走り,フランス南部にも到着します。
そして955年,東フランク王国の重装騎兵がレヒフェルトの戦い(Schlacht auf dem Lechfeld)でこれを退けました。
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