キリスト教の騎士たちが聖地奪還を目指してエルサレムへと遠征しました。
十字軍の遠征から無事に帰還した騎士たちは、東方で得た文化を自国に持ち込み、築城術や騎士道が洗練されていきました。
十字軍の遠征とは
セルジューク朝トルコの拡大に苦しめられているビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスがローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めました。
ウルバヌス2世は、1095年11月27日のクレルモン公会議にて、呼びかけました。
封建領主や騎士、兵役可能な男たちは直ちに武装せよ。来年、パレスチナに向けて出発し、キリストが教え、苦しんだ聖地エルサレムや他の聖地を、イスラム教の圧制者から解放するのだ!
もしそこで命を落としたのなら、その罪は同時に赦されるだろう。これは神が認めたことです。
教皇の呼びかけは歓喜を持って受け止められ、その後約200年に及ぶ十字軍の時代が始まりました。
100万人以上の兵士や巡礼者が「Deus le vult」というスローガンを掲げて聖地を目指しました。
多くの人が命を落としました。疫病、自然災害、戦争…。
政治的にも、この莫大な費用がかかる事業は失敗に終わり、キリスト教徒が最初の遠征事業で征服した地も、長期的には維持することはできませんでした。
十字軍が騎士道に与えた影響
十字軍の遠征そのものは失敗に終わりましたが、十字軍の遠征事業がヨーロッパ文化に与えた影響は大きいです。
教皇が十字軍を呼びかけたことにより、野蛮で好戦的な騎士たちは、好戦的欲望を向ける先として教皇公認の目標を与えられることになり、新たな自信と矜持となりました。
理想的なキリスト教騎士像の完成形として、十字軍は与えた影響は、以下の3つです。
- キリストの家臣
- 聖騎士として
- 風習の洗練
キリストの家臣
聖戦の呼びかけにより、騎士団の地位が高まり、伯爵や侯爵、国王や皇帝までもがこの栄光に預かりたいと願いました。
下は下級騎士から上は皇帝まで、キリストの家臣になることは恥ずかしいことではなく誇らしいことです。
キリストの戦士として、全員が共通の課題に取り組むことで共通の責任感と誇りが生まれ、連帯感が生まれました。
これにより、下級騎士たちは上級貴族質の生活様式を間近に見ることができるようになり、真似するようになりました。
聖騎士として
十字軍はキリスト教の最も純粋な理想の姿を描きました。
宗教騎士団に所属し、そこで試用期間を経て永遠の誓いを立てた男性のことです。
異教徒の戦いが義務付けられただけでなく、昔の修道士の美徳(貧困、貞節、従順)にも誓いを立てました。
以上のことから、聖騎士は戦う修道士とも位置づけられます。
初期の十字軍にはヨーロッパ貴族のエリートたちが集まっており、その勇気と信心深さゆえに、一般の人々の賞賛と崇拝の対象となっていました。
よって、世俗の騎士団にとっても道徳的モデルともなっていました。
風習の洗練
十字軍騎士たちは東洋の生活様式と出会ったことで、騎士文化が洗練されました。
ヨーロッパ中世の騎士たちは、粗野で不器用です。
そんな彼らがイスラム教世界から自国にはない物品や文化に触れ、それを自国に持ち帰りました。
衣類、香辛料、お湯や香水による身体の手入れ、会話術、想像力などを持ち込み、騎士道文化を発展させました。
十字軍が築城術に与えた影響
十字軍は直接エルサレムへと向かったのではなく、その途中にはビザンツ帝国やイスラムの城塞がありました。
ビザンツ帝国の築城術
ビザンツ帝国の築城術は、ローマ帝国から引き継いでおり、1,000年以上にも渡って帝国を存続させることに成功していました。
コンスタンティノープルの大城壁は、イスラム軍を跳ね返し続けました。
大城壁は頑丈で、高さ18mの3階建ての塔によって守られていました。
城壁に矢狭間はありませんでしたが、塔には前面と側面に矢狭間がありました。2階からは両脇の塁壁に出ることができる堅牢な扉があり、攻撃軍が塔内部に侵入してくるのを防いでいました。
イスラム勢力と交戦する中、跳ね出し狭間、矢狭間、落とし格子、殺人孔を生み出しています。
跳ね出し狭間は、日本の城で言うところの石落としのようなものです。
十字軍の騎士たちは、塔による塁壁の防御力強化と、武装化防衛施設(跳ね出し狭間、矢狭間、落とし格子など)の技術を理解し、自国に持ち帰りました。
築城プランの変化
十字軍はエルサレムへと向かう途中、多くの城を建設していきました。
当初は、ヨーロッパ伝統のモット・アンド・ベイリー様式の城を建てていましたが、サラセン人相手には全く通用せず、築城技術と戦術を変化させなければならなくなります。
塔は最終的な避難場所であり、城門から離れた場所にあるのが一般的で、最後の決戦場所でもありました。
つまり、敵が城内に侵入してこない限りその機能を発揮できないことになります。
塔は戦闘の最前線に移動させ、防御面で城の最も脆弱な場所に移動しました。
また、1箇所しかなかった城門を複数設置するようになり、攻撃側はどこから城兵が出撃してくるか判断しにくいようにしました。
イスラムとの戦闘から、城門を強化することを学び、城門に塔を備えた双塔城門が誕生したり、落とし格子や跳ね出し狭間が設けられるようになりました。