ザーレ川沿いのハレ市にあるモーリッツブルクです。ライプツィヒ(Leipzig)の北東約20kmのところにある城です。後期ゴシック様式の城です。
南西約40kmのところに同名のモーリッツブルク城(ツァイツ)がありますので,混乱を避けるために城名の後に地名をつけます。
モーリッツブルク城(ハレ)の見どころ
ほぼ正方形の標準的な間取りですが,要塞とシュロスの概念を組み合わせた城で,住宅ニーズと軍事目的を兼ね備えた城となっています。
城の周囲は沼地のような堀が取り囲んでいます。
西翼は現在博物館として使用されています。領主の居住区と大司教の図書館がありました。
北翼にはかつて正門がありましたが,1616年に壁で塞がれてしまいました。美しい紋章のフリースがあります。公文書館として使用されていました。
東翼は都市に面した城門があります。直接攻撃を避けるため,少しカーブがつけられています。
南翼は原型をとどめておらず,かつては厨房,城長の居室,井戸があったとされています。
もともとはマグデブルク大司教の居城でした。現在,ザクセン・アンハルト州立美術館として使用されており,ザクセン・アンハルト文化財団が信託管理しています。
州立美術館ですが,モーリッツブルク・ハレ(ザーレ)美術館の愛称で親しまれています。
モーリッツブルク・ハレ(ザーレ)美術館‐(ザクセン・アンハルト州立美術館)
美術館の公式チャネルがあります。
表現主義の作品を重点的にコレクションしています。19世紀の絵画もあれば,17~18世紀の後期ゴシック芸術の作品も展示されています。
また,表現主義と構成主義を取り入れた20世紀のドイツグラフィックアートの収集にも力を入れており,東ドイツ時代の芸術家たちの作品が多く展示されています。
マリア・マグダレン礼拝堂
14×23m,高さ15mとこぶりな礼拝堂ながら,広々と感じ,オーバーザクセンの後期ゴシック様式の宗教建築の伝統を守った造りになっています。
1513年,大司教エルンストの心臓が礼拝堂に安置されています。
モーリッツブルク城(ハレ)へのアクセス
モーリッツブルク城の歴史年表
- 961年
- オットー1世から「ciuitas Giuicansten」を製塩所付で大司教区マグデブルクのモーリッツ修道院に完全譲渡されました。
- 13世紀
- 都市貴族のプフェナー家が台頭し,君主であるマグデブルク大司教(Erzbischof von Magdeburg)から自由と特権を購入し,都市から大司教の影響力を取り除くことに成功しました。政治的自治を獲得します。
- 15世紀
- 都市の手工業ギルドとプフェナー家の対立が始まります。
- 1479年
- ギルド側が君主と同盟を結び,マグデブルク大司教の軍勢に門を開放してしまいます。都市ハレの法的な独立は終わります。強力な城を建築することになりましたが,都市外に適切な場所が見つからず,旧ユダヤ人地区の跡地に良い場所が見つかりました。建設資金は,ハレの質屋から没収して調達しました。
- 1484年
- 5月25日に大司教エルンストが礎石を置きました。国の守護聖人マウリティウス(St.Mauritius)にちなんでモーリッツブルクと名付けられました。
- 1503年
- 大司教エルンストが建物に入ります。
- 1517年
- アルブレヒト5世・フォン・ブランデンブルク(Albrecht V. von Brandenburg)はドミニコ会修道士を連れてきて,免罪符を大量に販売しました。その資金を使用し,聖遺物を収集しました。これはドイツの重要なコレクションとなっています。
- 1533年以降
- 東側に城壁および稜堡,低い円形の稜堡が建設されました。
- 三十年戦争時
- モーリッツブルクはスウェーデン軍の攻撃を受け,城内に火災が発生しました。スウェーデン占領軍から城を取り戻すため,南西稜堡を爆破しています。その後礼拝堂だけが再建され,使用されます。
- 七年戦争および解放戦争
- 軍事病院として使用されます。
- 1894年
- ハレ大学創立200周年を記念して,フェンシング室と体育館が建設されました。1990年まで体育の授業に使われました。
- 1897年
- プロイセン州は市立美術館のために,東翼,南翼,西翼を市に割譲しました。
- 1904年以降
- ベルリン大美術館の第二展示場となります。
- 1913年
- 博物館のために南東の稜堡が増築されます。
- 第二次世界大戦
- 城の深い地下室が,周辺住民およびナチス指導者たちのための防空壕として機能します。地下室には様々な貴重品や建築部品も保管されていました。
- 1990年以降
- 美術館として独占的に使用され,城の再建作業が継続的に行われています。西翼跡および北翼には展開式の部屋が設けられ,新たな展示スペースとなっています。